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 ジョルジョ・ラ=ピーラ(1904-1977)
 [履歴]
 1904年 シチーリア州ラグーサ県ポッツァロ生まれ
 1934年 フィレンツェ大学教授(ローマ法)
 1938年 雑誌「プリンチピ」編集長
 1946年 制憲議会議員(キリスト教民主党)
 1948年 下院議員(フィレンツェ・ピストイア選挙区)
     労働・社会福祉政務次官(第5次デ=ガスペリ
     内閣)
 1951年 フィレンツェ市長(-58)
 1961年 フィレンツェ市長(-65)
 1967年 世界連携都市連盟(FMCU)会長(-77)
 1977年 フィレンツェで死去
 
  特に貧者への配慮で知られる、長くフィレンツェ市長を務めた政治家。貧者への配慮
 を称えられ、死後カトリック教会から「神の僕」(Servo di Dio)の称号を得た。

  学位論文の指導教授だったエミーリオ・ベッティに随い1926年にフィレンツェに転居。
 フィレンツェ大学のローマ法の代理教授から正教授となり、1937年に雑誌「プリンチピ」
 を創刊、個人の権利を擁護しファシズムを批判する論陣を張ったが、当局により発禁と
 なった。

  キリスト教民主党内では、党内左派の一派でミラーノ聖心大学のカトリック知識人を
 中心とするドッセッティ派の一員となる。この派はキリスト教倫理の政策的反映、特に
 弱者救済に力を入れていた。

  キリスト教的な平和思想の実践として、1952年から1956年まで毎年「平和とキリスト
 教文明のための会議」をフィレンツェで開催、国外からも多くの研究者、芸術家、作家
 などを招待した。自らも1959年にモスクワを訪問し緊張緩和と軍縮を訴えたが、ソ連共
 産党機関紙「プラウダ」のインタビューを受けたため、DC右派や教皇庁機関紙「オッ
 セルバトーレ・ロマーノ」から批判された。また、1958年には当時イタリアが未承認の
 中国共産党政権からの使節をフィレンツェ市庁舎のパラッツォ・ヴェッキオに迎えてい
 る。こうした非公式ルートの外交活動は同じDC左派のファンファーニ(首相、外相を
 歴任)の「新大西洋外交」(アメリカと協調を保ちながら中東などでは独自行動もとる)
 と連動したものだと考えられている。1965年にはヴェトナムを訪問、ホー・チ・ミン主
 席と会談し、ジョンソン米大統領への親書を預かったが、米側はこうした動きを歓迎し
 なかった。このヴェトナム訪問に随行したのが後にフィレンツェ市長となるマーリオ・
 プリミチェーリオ(市長1995?1999、現ラ=ピーラ財団理事長)であった。

  国際的な自治体交流にも熱心で、フィレンツェがランス(1954年)を皮切りにフェズ
(1961年)、フィラデルフィア(1964年)と姉妹都市提携を始めたのもラ=ピーラ市政期
 である。京都との協定締結(1965年)は後任のラゴーリオ市政期だが、着手はラ=ピー
 ラである。その後、ラ=ピーラは世界連携都市連盟の会長を長く務め、中東戦争の後に
 イスラエル、エジプト双方の都市を訪問したり、欧州安保協力会議のヘルシンキ議定書
 に示された文化や人の交流の促進を支持して各種の活動を行った。

  フィレンツェを欧州統合の拠点とすべく、EC本部の誘致に名乗りを上げただけでな
 く、欧州大学院大学(EUI)の誘致を実現した。

  その貧者への配慮を称え、1986年、ピオヴァネッリ・フィレンツェ大司教によりラ=
 ピーラの列聖・列福審査が開始された。これにより、教会から「神の僕」の称号が与え
 られている。そのため、フィレンツェ市民からは「聖人市長」(sindaco santo)と呼ば
 れることもある。

 [エピソード]

 [関連リンク]
  ジョルジョ・ラ=ピーラ財団 
  世界連携都市連盟(FMCU) 

 (随時改稿:この項は書きかけです)
  (注)尊者については、カトリック中央協議会による解説を参照されたい。

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