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 ウーゴ・ラ=マルファ(1903-1979)
 [履歴]
 1903年 シチーリア州パレルモ生まれ
 1926年 ヴェネツィア大学法学部卒業
 1929年 トレッカーニ百科事典編集部
 1933年 イタリア商業銀行調査部、同部長(38-)
 1943年 行動党結党に参加
      同党の国民解放委員会代表
 1945年 運輸相(パッリ内閣)
     国際貿易相(第1次デ=ガスペリ内閣)
 1946年 行動党を離党
     制憲議会議員(共和主義民主集中)
 1948年 下院議員(ボローニャ選挙区)
     下院予算・国庫委員長、対ソ連講和交渉全権
     IMFイタリア代表団長、IMF副総裁
 1950年 無任所相(第6次デ=ガスペリ内閣)公企業再編担当
 1951年 国際貿易相(-53、第6次・第7次デ=ガスペリ内閣)
  1959年 共和党機関紙「ラ・ヴォーチェ・レプッブリカーナ」編集長
 1962年 予算相(-63、第4次ファンファーニ内閣)
 1965年 共和党書記長(-75)
 1973年 国庫相(-74、第4次ルモール内閣)
 1974年 副首相(-76、第4次モーロ内閣)
 1975年 共和党党首
 1979年 副首相兼予算相(第5次アンドレオッティ内閣)、ローマで死去
 
  戦後のキリスト教民主党中心の連立政権にあって特に経済政策で貢献した、穏健左派
 の共和党を代表する政治家。国家介入政策の基本をまとめたメモを作成したことでも
 知られる。欧州統合にも積極的に関わり、スピネッリとも親交が深かった。

  治安警察准尉を父に生まれる。中流家庭だが、母親の方針で兄弟はブルジョワ家庭の
 ような高等教育を受けることができた。伯母の支援で当時南部の師弟が多く進学した
 ヴェネツィア大学に進み、北伊の国際的な知的環境に親しむ。

  ヴェネツィア大学では、シルヴィオ・トレンティン、ジーノ・ルッツァートらファシ
 ズムに批判的な教授陣の影響を受ける。ルッツァートの国際経済の授業からは経済分野
 への関心も影響を受けている。奨学金を得てローマ大学に移り、自由主義的な学生運動
 組織に参加、反ファシズム運動に関わる。ジョヴァンニ・アメンドラが主催する全国民
 主主義連合会議に参加したが、この会議にはマーリオ・ベルリングェル(エンリーコの
 父)、グリエルモ・フェッレーロ、マーリオ・ヴェンチグエッラ、ロベルト・ヴェンチ
 ヴェンガなど名だたる反ファシズムの闘士が集まっていた。

 サルデーニャで兵役の後、輸出局に勤務するが、「クワルト・スタート」などの反ファ
 シズム雑誌に関わったことで逮捕され、失職。故郷のパレルモに戻り、シチーリア銀行
 の調査部に勤務する。

  1929年にトレッカーニ百科事典の編集部に入り、事典項目を執筆する。この百科事典
 はファシスト政権で教育相を務めた哲学者のジョヴァンニ・ジェンティーレの指揮によ
 る事業であったが、それゆえに却って反ファシズム知識人の隠れ蓑となっていた。歴史
 家のフェデリコ・シャボーもその一人である。

  レジスタンス知識人政党「行動党」の結成に参加し、セルジョ・フェノアルテア(後
 の駐米大使)とともに同党の国民解放委員会代表となる。同党のパッリを首班とする
 連立内閣では運輸相となった。1946年の制憲議会選挙前に党内の路線対立からパッリと
 ともに離党、新党「共和主義民主集中」を結成し当選する。その後、共和党に加入した。
 
  1950年にデ=ガスペリ首相から公企業再編担当の無任所相に任命され、ファシズム期
 に創設された産業復興公社(IRI)などを国家持株会社とする公企業省の設置を提案する。
 この構想は当時の産業公社総裁からは反対されるが、実現され、戦後の経済政策の基礎
 となった。

  1962年に社会党の棄権(消極的支持)で成立した初の中道・左派政権である第4次
 ファンファーニ内閣の予算相に就任、経済の計画化に関するメモ(Nota aggiuntiva)
 を提出、以後の経済政策の基本デザインを示した。これは労組からも経営者団体から
 も反発を受けたが、社会党が入閣の条件とした電力国有化は実施された。

  第4次モーロ内閣の副首相として迎えられたのは、DC左派のモーロ首相と、カトリック
 との「歴史的妥協」を提唱していたベルリングェル共産党書記長の仲立ちとなり得る存
 在であったからである。極左テロ集団「赤い旅団」によりモーロが暗殺されると、共産
 党が支持する国民連帯政権がアンドレオッティの首班で成立するが、第4次アンドレオッ
 ティ内閣が危機に陥った際にはペルティーニ大統領から組閣を指示されたが共産党の
 入閣をDCは認めず、失敗に終わる。第5次アンドレオッティ内閣の副首相となった直後
 に急死した。

  戦後初期から欧州統合を支持する論陣を雑誌「イル・モンド」等に掲載してきた欧州
 派で、1976年には党内左派の反対を退け、共和党を欧州議会のリベラル進歩派政党連
 合である欧州自由民主連盟に加盟させ、1978年の欧州通貨制度(EMS)へのイタリアの
 加入にも決定的な影響を与えている。

  息子のジョルジョはやはり共和党の指導者となったが、1992年の汚職事件「タンジェ
 ントポリ」摘発により傾いた党勢を復活させることには成功していない。共和党はいっ
 たん中道・左派の「オリーヴの木」に参加したが、2001年の総選挙で中道・右派に寝返
 り、「フォルツァ・イタリア」の選挙名簿に入るなどしてようやく議席を確保している
 のが現状である。ジョルジョは第3次ベルルスコーニ内閣で欧州政策担当相となっている。

 [エピソード]

 [関連リンク]
  ウーゴ・ラ=マルファ財団

 (随時改稿:この項は書きかけです)

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