やそだEU&イタリア総研   20世紀イタリア人名辞典                         


 ルイージ・エイナウディ(1874-1961)
 [履歴]
 1874年 ピエモンテ州クーネオ県カッル生まれ。
 1902年 トリーノ大学財政学教授。
    ボッコーニ大学、ミラーノ・ポリテクニコでも教える。
 1919年 上院議員
  この間『コッリエーレ・デッラ・セーラ』紙に多く寄稿。
 1943年 トリーノ大学学長
 1945年 イタリア銀行総裁(-48)
 1946年 制憲議会議員(自由党)
 1947年 副首相、予算相(デ=ガスペリ内閣)
 1948年 共和国大統領(-55)
 1961年 ローマで死去
 
  創生期のイタリア経済学を支えた著名な経済学者であると同時に、戦後の
 財政、経済の建て直しにも貢献したイタリア自由主義を代表する政治家。

  経済学では均衡予算、自由貿易を支持する古典的な自由主義の立場をとる
 が、公職者に廉直な態度を求め、後進的な南部問題の解決にも強い関心を示
 すなど、政治・経済の倫理面も重視した。

  今日的な関心からは、イタリアの欧州主義への思想的貢献が注目される。
 第一次大戦後のヴェルサイユ体制構築期に有力紙『コッリエーレ・デッラ・
 セーラ』への匿名寄稿でウィルソンの国際連盟構想を不十分だとして批判し、
 欧州連邦の創設を提案した。

  ファシズム期には活動は制限されたが、「ソ連のサハロフ博士のように」
 (欧州連邦主義運動家スピネッリの言)当局からも一目置かれる存在であり
 拘禁されることはなかった。レジスタンス期の欧州連邦主義運動の代表的文
 書「ヴェントテーネ宣言」を政治犯収容所でスピネッリと共同で書いた経済
 学者ロッシとも文通し、文献を送付するなど影響を与えた。

  ムッソリーニ失脚後の対独レジスタンス期、内戦状態となった北部から一
 時スイスに亡命、この間にスピネッリらの「欧州連邦主義運動」に加入。

  戦後は哲学者のクローチェとともにイタリア自由党を代表する存在となる
 が、経済的自由主義の評価をめぐって両者の立場は微妙に異なっていた。
 制憲議会でクローチェが愛国心に訴えて懲罰的な講和条約批准に反対する演
 説をしていたころ、同じ議会でエイナウディは国家主権の限界を超える手段
 として欧州統合を戦後外交の目標として訴えている。

  1947年、デ=ガスペリ内閣の予算相に就任すると、預金引き出し制限等を
 含む厳しい引き締め政策で通貨リラを防衛した。この措置は国内的には失業
 増など犠牲を強いたが、戦後イタリア経済の安定化への基礎ができた。

  1948年、初の大統領選挙でスフォルツァの選出に失敗したデ=ガスペリ首
 相の支持を受け、当選、2代目大統領に就任した(初代は臨時国家主席デ=
 ニコラが1948年1月1日の共和国憲法施行で自動的に就任していた)

  大統領任期中の出来事で今日も歴史的映像で多く登場するのは、ユーゴと
 の領土帰属でもめたトリエステ返還式典である。エイナウディが式典に参加
 しトリエステの帰還を祝ったことはイタリア・ナショナリズムを大いに高揚
 させた。

  2001年11月、チャンピ大統領は、欧州統合に消極的なベルルスコーニ内閣
 への忠告もあってか、イタリアの欧州主義が長い歴史に支えられたものであ
 ることを死後40周年を迎えたエイナウディの名前を出して強調した。

  欧州統合への貢献、清廉な生活態度など、今日もイタリアの政治家の理想
 として挙げられる名前である。

 [エピソード]
  その清廉な生活態度を示す有名な逸話を一つ。
  ある日、大統領官邸での正餐でリンゴを二つに切って、半分を食べた後、
 「残りの半分が欲しいのは誰かな?あなたはいかがですか? 無駄にしたく
 ないのでね。」
  今日、腐敗した政治家を批判するときに引用されることも多い有名な話。

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