[履歴]
1881年 オーストリア=ハンガリー帝国領トレンティーノ地方
ピエーヴェ=テスィーノ生まれ
1900年 ウィーン大学文哲学部入学
1904年 トレンティーノ人民政治連合執行部
1905年 ウィーン大学文哲学部(文献学)卒業
1906年 日刊紙『イル・トレンティーノ』編集長
1909年 トレント市議会議員
1911年 オーストリア帝国議会議員(トレンティーノ人民党)
1914年 チロル州議会議員
1919年 人民党結党に参加、同党全国理事、執行部
1921年 イタリア下院議員(人民党)
1924年 人民党書記長
1927年 ファシスト官憲により逮捕、収監(?28)
以後、ヴァティカン図書館に勤務、大戦中には地下活動開始
1944年 キリスト教民主党を結党、書記長(?46)
無任所相(第2次ボノーミ内閣)
外相(第3次ボノーミ内閣、パッリ内閣)
1945年 首相(?53、組閣8回、外相兼任:45?46、51?53)
1946年 制憲議会議員
1948年 下院議員
1953年 キリスト教民主党書記長(返り咲き)
1954年 ECSC諮問議会議長、セッラ=ヴァルスガーナで死去
イタリアの戦後復興を指揮し、キリスト教民主党主導の連立政権首班を長期
にわたり務めて戦後政治の原型を作り、イタリアのNATO、ECSC加盟を主導した
だけでなく、欧州政治共同体の設立を訴えて「欧州統合の父」たちの一人にも
数えられる政治家。こうした意味から、ドイツのアデナウアー、日本の吉田茂
ともよく比較される。
オーストリア帝国領内のイタリア人地区で生まれ、父は国境警備隊の憲兵で
あった。生活は質素で、ウィーン大学在学時に使用した貧困家庭証明書が今日
まで残されている。在学中にイタリア人学生運動組織「トレンティーノ・カト
リック大学連合」で活動し、国内外のカトリック勢力と人脈ができた。当時の
重要な活動の一つは、トリエステにイタリア語使用大学の設置を求める運動で
あったが、帝国政府は長く設置を延期したうえに、トリエステ、トレントなど
イタリア系の大都市でなく、ドイツ語圏のインスブルック郊外のヴィルテンと
いう小さな町にイタリア語を使用する法学部を設置した。同学部が1904年に
開学した際には、イタリア人学生とドイツ人学生・住民の間で騒動が起き、
デ=ガスペリも逮捕され、19日間拘留されている。
在学中からオーストリアのキリスト教社会主義雑誌『ライヒスポスト』や、
イタリアのカトリック系雑誌『イル・ドマーニ・ディタリア(イタリアの明日)』
『ラ・ヴォーチェ・カットーリカ(カトリックの声)』『フェーデ・エ・ラヴォ
ーロ(信仰と労働)』などに寄稿し、卒業後は『イル・トレンティーノ』紙で
ジャーナリスト活動をしながら、トレントの副総司教であったエンドリチ枢機
卿の影響もあって、カトリック政治運動に深く関わることになる。学生時代に
早くも執行部入りした「トレンティーノ人民政治連合」は、「トレンティーノ
人民党」と改称し、1907年の帝国議会で7議席を獲得し国政に進出、デ=ガス
ペリも2年後にトレント市議に当選している。
1911年の帝国議会選挙でトレンティーノ人民党から出馬し当選。ウィーンに
イタリア語使用大学の設置などを求めたが、1914年の第1次世界大戦勃発によ
り議会は停止された。デ=ガスペリは伊墺間の平和を保てるとして三国同盟を
支持していたが、イタリアが中立から協商側に転換しオーストリアに侵攻する
と、帝国内イタリア人にも兵員召集が告げられるなかでデ=ガスペリらは難民
対策に追われることになる。帝国内イタリア人への食糧援助については、国内
にイタリア系住民を抱えるスイスに要請した。
第1次世界大戦でイタリアは戦勝国、オーストリアは敗戦国となり、1919年
のサン・ジェルマン条約でトレント、南チロル地方はイタリアに割譲された。
同年に行われたイタリアの総選挙では、直前に結党したカトリック系の人民党
が 100議席を獲得し、社会党に次ぐ議会第2党となった。デ=ガスペリは人民
党の結党にも参加していたが、講和条約成立前に総選挙が実施されたため、立
候補できなかった。しかし、党内では新領土からの代表として歓迎され、執行
部入りを果たしている。デ=ガスペリは2年後、1921年の総選挙で下院議員に
初当選、人民党の下院議員団長となった。
1922年のローマ進軍によりファシスト政権が誕生すると、当初は超党派的姿
勢を示したムッソリーニに応じ人民党からも入閣したが、日増しに既存政党へ
の圧力が高まり、人民党の創始者であるストゥルツォ師が政治活動を停止させ
られた。これにはファシストに妥協的な教会からの圧力もあったようである。
1924年の総選挙は勝者プレミアム制導入でファシスト党が375議席、人民党は
39議席となり、左派政党が事実上排除されたなかで唯一の野党となっていた。
デ=ガスペリは1924年に人民党書記長となり、ファシストの暴力的な選挙運動
を糾弾し暗殺されたマッテオッティ社会党書記長の死に抗議して議会をボイ
コットする「アヴェンティーノ連合」に参加したが、ファシストによる弾圧は
強まり、1925年の人民党党大会を最後に翌26年の野党違法化、下院停止で活動
の場を失い、デ=ガスペリ自身も1927年に逮捕され、禁固4年の判決を受けた。
健康悪化や教会からの働きかけもあり、1928年に減刑、恩赦により釈放され
るが、表だった政治活動はできず、ヴァティカン図書館の司書として地下生活
に入る。ペンネームを用い、教会系の雑誌に国際情勢の時事論文などを執筆
していた。第2次世界大戦中の1942年に同志たちと密かにキリスト教民主党を
結党する。
1943年にムッソリーニが失脚すると、戦後を見据えてカトリック中道派の集
結が進み、同年末に旧人民党の機関紙「イル・ポーポロ」でキリスト教民主党
宣言を掲載した。デ=ガスペリは書記長として新党を率い、反ファシスト6政
党による「国民解放委員会」を中心とする連立内閣で外相に就任した。首相に
就かなかったのは、自由党など大戦前からの古い穏健派勢力を巻き込みながら、
戦後の三大勢力となるキリスト教民主党、社会党、共産党との間で戦後体制樹
立のために人事でのバランスが必要だったこともあるが、結果的に対英米関係
を掌握したことでキリスト教民主党は戦後の中核政党となる基礎を得た。
1945年末に首相に就任してからは、DC、社会党、共産党の3大政党を中心に
戦後復興にとりかかる。1946年には制憲議会選挙と君主制か共和制かを選択
する国民投票を同日に実施し、党員に共和制支持が多く、一方で一般支持者に
君主制支持者も少なくないDCを分裂させずに議会第1党にすることに成功した。
1947年に訪米し緊急援助を獲得し帰国すると、社会党、共産党を除く内閣を
組閣し、1948年の共和制初の総選挙では社共両党の「民主人民戦線」と激突
したが、アメリカの強い支持もあって単独過半数を制する歴史的勝利を収めた。
キリスト教民主党が単独過半数を占めたのは、歴史上この選挙1回だけである。
キリスト教民主党単独で政権樹立も可能であったが、デ=ガスペリは敢えて
左右の穏健改革派政党である自由党、社会民主党、共和党などの小党との連立
を選んだ。これらの小党には戦前のエリートなど優秀な人材が少なくなかった
だけでなく、DCには逆にカトリック左派などデ=ガスペリの親米路線に批判的
な勢力もあったからである。共和党に加入したスフォルツァを1947年に外相に
指名したのもイタリアの西側への統合を目指すのにふさわしい配置であった。
(以下、未記入)
1993年、出身地のトレントで列聖・列福調査が開始されたので、カトリック
教会から「神の僕」という呼称を得ている。
[エピソード]
(随時改稿:この項は書きかけです)