やそだEU&イタリア総研   現代イタリアの基礎知識                      


     4月25日(解放記念日)

 私たち日本人は8月15日の終戦記念日に戦没者を慰霊し、歴史的反省をします。では、イタリア
では戦没者慰霊はどうなっているのでしょう。こういった質問をこのホームページをご覧になった
方からメールをいただきました。以下は、その時作ったメモをもとにしたものです。


(概略)

 イタリアには祝日として4月25日の解放記念日があります。イタリアの祝日で宗教以外の起源の
ものとしては、ほかにメーデーと共和国記念日(6月2日)があるだけなので、戦争犠牲者を悼む
日としてはやはり最重要の日だと思うのですが、これは以下に述べるように、日本の終戦記念日と
は大きく性格を異にします。また、行事の性格はユダヤ人虐殺によって国際的に圧倒的な負のイメ
ージを背負ったドイツとも性格が違い、戦後の民主主義の出発点として積極的な性格を持ちます。
日本の場合と単純に比較すると誤解を生む恐れがあるので、少し歴史的背景を説明します。


(歴史的背景)

 イタリアは1943年7月の連合国のシチリア島上陸で敗色が濃くなり、国王がムッソリーニを失脚
させた後、米英の占領下におかれた南部に国王と反ファシズム勢力の政府ができ、一方でドイツに
支持されたファシストの残党が北部の小さな町サロに「イタリア社会共和国」政府を樹立、一種の
内戦状態となりました。南部の政権はドイツに戦線布告し、北上した連合軍は44年6月にはローマ
までを解放しましたが、北部、中部ではイタリアの反ファシズム勢力による対独パルチザンが組織
され、厳しい戦いを経て45年4月にようやくミラノ、トリノなど北部の主要都市が解放されます。

 したがって、4月25日は第一義的には、イタリア人自身がドイツ軍に勝ったという、対ドイツ
(+対ファシズム)の解放記念日なのです。そのため、祈念の中心はどうしても国内での対独パル
チザンの犠牲者(したがって多くは兵士でなく市民)であり、報道を読んでも外国での戦死者(兵
士)についての言及がほとんど見つかりません。(ただし、イタリアの対独宣戦後にギリシャなど
の共同占領地でドイツ軍に殺されたイタリア軍兵士の追悼行事は報じされています)
 ドイツ軍は敗走しつつも強固な軍隊であり、イタリアのパルチザンや一般市民に多くの犠牲者を
出しました。戦後のイタリア共和国(1948年に憲法施行)はこうした反ファシズム勢力が中心に
作ったもので、共和国制も1946年に国民投票で王制との選択で選んだものであり、日本と異なり、
自ら明快な戦前の体制との決別を行った結果、ファシズムの行った行為を自らの直接の責任とは考
えていません。
 もちろん、イタリア人にもファシズムに対する反省はあり、上記のような思考は客観的に見れば
便宜的な使い分けでもあるわけですが、戦勝国であり、ドイツほど軍事的、人種差別的行為も目立
たず、戦後の米ソ対立下、西側陣営に属したイタリアに国外から大きな批判が寄せられることはあ
りませんでした。


(行事の主体)

 当然ながら解放記念日は国を守った英雄に敬意を表するものですから、パルチザンの記念碑だけ
でなく、戦没者、無名戦士の碑に献花が行われています。各地での行事の主催者はこの日に最も尊
重されるパルチザンの団体、ANPI(イタリア・パルチザン全国協会)が主催し、地元政府などが
協賛している形が多いと思いますが、公式の行事であるといっていいと思います。
 イタリアの自治体は20州、103県、数千のコムーネ(市町村の区別なし)となっていますが、州
政府は1970年に作られたもので歴史は浅く、こうした行事の中心になるのは大都市の市長です。
 実際に行政的にどのように組織されているかはしっかりと把握していないのですが、少なくとも
私が留学中滞在したフィレンツェ市では当日、きれいなリボンと献花が無名戦士の墓に手向けられ
ていました。その碑を見たところ、もともとは過去の植民地での戦争や第一次世界大戦の死者を祈
念して建立されたものであり、どの戦争であれ、国のために亡くなった人を悼むということで特に
区別はしていないようです。おそらく全国至る所、あらゆる市町村で同様の献花は行われているも
のと思います。


(2001年の4月25日)

 『レプッブリカ』紙の記事をもとに2001年の4月25日の各地での行事を列挙してみます。

・中道・左派連合「オリーブの木」統一首相候補のルテッリ氏は、ボローニャ近郊マルツァボット
で1944年秋にドイツ軍とファシストにより虐殺された人を悼むため、同地を訪問した。

・最大規模の行事が行われたのはミラーノで、極右勢力の対抗的なファシズム記念の動きによって
衝突も市内の一部であったものの、市の中心部では5万人の人々が参加しながら、ヴェネツィア門
からドゥオーモ広場まで長い行進が行われ、その先頭にはノーベル文学賞受賞作家ダリオ・フォ氏、
ガブリエーレ・アルベルティーニ市長(中道・右派)、ピエーロ・ファッスィーノ司法相(左翼民
主主義者)、セルジョ・コッフェラーティCGIL(イタリア労働総同盟)書記長らが参加した。中道=
右派の支持する市長と左翼系の他の3人は対立した陣営に属するが、行進の終わりに互いに握手し、
この日は政治的対立を越えて祈念する意志を示した。公式セレモニーの後、歌手、詩人、芸術家に
よる「パルチザンの祭典」が開催された。

・トリーノでは中道・右派連合「自由の家」統一首相候補のベルルスコーニ氏が「4月25日と5月
1日(メイ・デイ)は左翼の独占物ではない」と述べ、同地の別の会場ではヴィオランテ下院議長
(左翼民主主義者)が「この日は単に追悼の日に留まらず、基本的人権や市民権を守る責務を認識
する日としなければならない」と演説した。

・ジェノヴァではパルチザン犠牲者への献花、公式のセレモニーとドイツ軍のマインホルト将軍が
1945年4月25日に降伏文書に署名したミゴーネ邸の訪問が行われた。ジェノヴァは国内で唯一、
パルチザン勢力がドイツ軍の捕獲に成功した町である。マンチーノ上院議長はこの日が「残虐なド
イツ軍による占領から民主主義と自由の国への転換点となった」と演説した。

・ローマでは、自らもパルチザンに参加したチャンピ大統領が「祖国の祭壇」の無名戦士の墓に献
花し、周囲の群衆から拍手を受けた。

・フィレンツェではプリミチェーリオ前市長らが「ベッラ・チャオ」を歌いながら自転車で市の中
心部をめぐるというユニークな方法で解放記念日を祝った。

・ナポリでは、全国イタリア・パルチザン協会の主催する祈念行事があり、第2次大戦中にドイツ
軍により殺害されたナポリの憲兵隊の犠牲者を悼む碑に献花された。バッソリーノ市長は「4月25
日はイタリア民主主義の誕生日である」「反ファシズムの価値観はすべてのイタリア人の共有財産
である」と演説した。

・パレルモではチェファローニアのパルチザン犠牲者を祈念するとともに、第2次大戦の末期、独
伊両国占領下のギリシャ島嶼部でイタリアの対独宣戦後に殺された9000人のイタリア軍兵士を悼む
行事が行われた。

・極右団体フォルツァ・ヌオーヴァはミラノでムッソリーニの死体がつるされたロレート広場で献
花をしようとし、解放記念日に対抗する動きを見せ、衝突でけが人がでた。ローマでも同団体が墓
地でファシスト追悼行事を行い警官隊と衝突した。


(日本との関係)

 日本が降伏した際にはイタリアは連合国の一部となっており、日本は少額ながら賠償(在外資産
の処分)も行っています。イタリアは対独、対日では最終時点で戦勝国になっているわけです。
 日本ではこのことをまだ理解していない人が多く、映画監督でもある北野武(ビートたけし)氏
が古典的なジョーク「この次はドイツ抜きで(戦争を)やろう」とヴェネツィアの国際映画祭受賞
式で言ったとき、出席していた映画評論家でもある当時のヴェルトゥローニ副首相(左翼民主党)
を始め、会場が一瞬白けたのはその例です。日本のメディアはこの場面を放送しながら意味を説明
できていませんでした。


(4月25日以外の慰霊)

 4月25日以外の日については調べていませんが、第一次世界大戦の慰霊を行っている可能性があ
ります。新聞で10代で参戦した当時一番若い兵士で現存者がいる記事を読んだことがあります。
 実は、欧州の慰霊碑の多くは第一次世界大戦による建立が多く、第二次世界大戦による建立より
圧倒的に多いのが西洋史の基本的知識です。真に世界大戦であり電撃戦であっという間に中立国と
英・露を除くほとんどがドイツの支配下に入った第二次世界大戦は、欧州内で各国が陸上で長く闘
った第一次世界大戦とは性格が異なります。
 統一後も地域差が大きかったイタリアは第一次世界大戦でようやく国民国家らしい意識が生まれ
てきたといわれています。

 「現代イタリアの基礎知識」に戻る  「やそだ総研」ホームに戻る