講堂内に展開する「大宇宙」立体曼荼羅(京都 東寺).

これぞ「大宇宙」

東寺の講堂内に配置された21体の仏像。
「立体曼荼羅」あるいは「羯磨(かつま)曼荼羅」と呼ばれ、空海の密教理念をあらわす配置がなされいるこの空間。
二次元の曼荼羅にあらわされた尊像たちを、をただ仏像(彫刻)に表しただけでなく、空海の強烈なメッセージが込められていると私は思います(詳しくは「空海の部屋」で書き込んでいますが)。

この尊像たちを見ているとまるで私たち人間そのものに見えてくるのです…怒ったり、諭したり、癒したり、そして誰もが抱いている欲望などが怒涛のように、エネルギーの塊としてこちらに向ってくる…
真言密教では、人間の欲望や例えば性愛の激しい感情なども、生きていく上での純粋な人間的「自然」として肯定してきた。それまでの信仰ではそれらを不浄なものとして忌み嫌ってきた部分を、密教では純粋なもの、つまり「自然」として捉えてきたのでした。
全てが「自然」。その自然も実は「大宇宙」の一つ、一部分に過ぎない…
言い換えれば、人間の感情<自然<大宇宙。つまり全てが大宇宙の枠組みの中の一部分(あくまでも私的な考えですが)。
その大宇宙の真理と言うべき中心に存在するのが、「大日如来」なのです。
そう考えてみると、この大日如来を中心に配置された仏達を見ていくと、その背後には無限の「大宇宙」が広がり、我々人間はその大宇宙の、ほんの小さな一部分でしかないと思い知らされてしまうのでした。


空間名プロデューサー「空海」

この講堂の諸仏配置は、視覚的に見ても、人々に驚きと感動をインプットさせる効果に満ち溢れていると思います…
まず講堂に入ってきて人々は、ここは今までに見たことが無い「異空間」であることに気付く。
最初にこちらに向って刀を振りかざして威嚇する「持国天」の迫力に圧される。そして顔を四つ持ち、四羽の鷲鳥の上に乗る異形の「梵天」。そのふくよかな肉体表現に「エロティズム」を感じる。
次に凛々しい顔立ちの「五大菩薩」たち。
中央には癒しを受け持つ「五大如来」。
そして異形の仏像たちが憤怒の形相でこちらに迫ってくる、野性味溢れた「五大明王部」。とくにこの明王たちは、中央の「不動明王」を除いて、多面広臂(ためんこうひ:面が二つ以上、腕が四本以上)の仏像ばかりで、見ている側に「ここは日本ではないのか?」とさえ思わせてしまうような、インド美術の特色が濃厚に混在しているのです。
最後は象に乗る端正な顔立ちの「帝釈天」。しかしこの仏像にも額に「第三の目」が…
「なんだこの空間は…?」誰もが心がどこかにトリップしてしまい、言葉を失ってしまう。
そして再び中央に戻って、「大日如来」の前に立ち、幅26m・奥行き7mの仏像の壇の上に展開される空間を見渡すと、不思議とそれほど違和感を覚えない。
完全にテーマが分かれている思われるこの三つの仏像たちのグループが、一つのまとまりを持って、エネルギーを見ている人たちに放出しているように感じてなりません…
この空間をプロデュースしたのが、弘法大師こと空海。彼は当時の都人の誰もが見たこともなく、想像もつかなかった世界をここに出現させてみせたのでした。
「密教とはこういうものなのだ」と説明しても当時はあまりにも難解すぎて、理解されにくい部分が多かったことでしょう。そこで空海は真言密教の描く壮大な大宇宙・エネルギーを人々に驚きと同時に、無意識のうちに「心にインプットする舞台装置」をここに作り上げたのだと、私は勝手に解釈しています。



空海の代わりに私たちに問いかけ続ける仏像たち

真言密教第八祖という、すでに「大日如来」そのものとなってしまった空海は、大宇宙からこの立体曼荼羅の前で対峙する私たちを見ているはず…

「密教はこういうものなのだ。どうだわかったか!?」って私たちの心の中に、これらの仏像はこれからも永遠に問いかけ続けていくことでしょう、空海の代わりに…

ある人が言う、「ここには宇宙がある」という意味がようやく分かりかけてきました。

講堂に入ってすぐに私たちを待ち構える、私が大好きな「持国天」。威嚇しまくっています。構え方もカッコイイ。

ご存知「梵天」。
ふくよかな肉体美で悩ませます…

五大菩薩の中で、私が一番好きな「金剛宝菩薩」。
ただ凛々しい…

五大明王のうち「大威徳明王」。
死神の王・閻魔(えんま)と鬼神アンタカが合体してできたと言われています。
六つの足に六つの腕、さらに六つの顔で異形中の異形な仏像。

空海さん、アンタ本当にどえらいもん作りよりましたな〜(関西弁)

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