我は「霊水観音」と名付けたり 百済観音(奈良 法隆寺).

腰から下の衣の襞(ひだ)が、滝が如く流れ落ちる水のように見えてしまいます。
前に跳ね上がるような、左右の天衣のカーブが、水が跳ね上がるが如く、リズミカルに流れています。
そして足元にある「蓮弁」が開いているところは、噴水のように下から「霊水」が湧き出ているように見えます。

あまりにも有名ですが、あまりにも伝来に謎の多い仏像でもあります。

法隆寺におられる「百済観音」。

古くから金堂の釈迦三尊の後ろに北向きに置かれていたこの百済観音ですが、法隆寺で最も古い記録といわれる「法隆寺資財帳」(747年)には、釈迦三尊や薬師如来像は記載されていますが、この像については何の記載も無い。
平安時代の「金堂日記」にも、鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」にも一切書かれていない。
時代が下がって江戸時代になってようやく「諸堂仏躰数量記」にて「虚空蔵菩薩、百済国ヨリ渡来…」と初めて記載されている。
一説では、14世紀に当時法隆寺の東400mの位置にあった中宮寺が荒廃したときに、法隆寺に移されたものではないかといわれていますが、確証は無い。
ながく虚空蔵菩薩と思われていましたが、近世になって法隆寺内でこの仏像の宝冠が発見され、その宝冠には観音菩薩の標識である「化仏」が描かれていたことにより、「虚空蔵菩薩」→「観音菩薩」とされ、いつしか「百済国将来」のイメージが被せられ、現代の「百済観音」と呼ばれるようになる。
しかし近年の調査で、この仏像は百済(朝鮮半島)では仏像に使用されていない樟(くす)材が使用されていることが判明。我が国で造られたことは確実になったのですが、まだまだ謎の多い仏像なのです。

「誰も私のことを知らない…」

学者達は色々な学説を立てる中、一番ヤキモキをしているのは、誰あろう、この「百済観音」なのかも知れません。

私はこの観音さまを、仏師がどんな思いで造ったのか、どういう経緯で発願されたのか、思いを馳せてしまいます…何観音として造られたのか?

この観音様には申し訳ありませんが、勝手に私が命名できるのであれば、「霊水観音」と呼ばせてもらいます。

左手に霊水が溢れる、「水瓶」(すいぴょう)を持つ。そして垂髪(すいはつ)は両肩のまるみに沿って波型に広がり、下半身、特に膝から下の衣の流れは、上から下に滴り落ちる水のようなリズミカルな流れ。
そして左右の両手から垂れる天衣は水が激しく流れ落ちて、跳ね上がっている、そう見えて仕方ありません。
さらにこの観音様の足元にある蓮弁が、広がっているところを見ると、地面から霊水が噴水のように湧き出て、それに観音様が乗っかっているようにも見える。

まさに「霊水観音」…

この観音様をみて、思わず涙が込み上げてしまう人々が数多くいると言う。
知らず知らずのうちに流す涙は、この観音さまが与えてくれた心の潤い、つまり「霊水」なのか…

全身から霊水の溢れる瑞々しい観音様。

乾ききった私たちの心に、いつまでも潤いを与え続けてください…


水瓶をもつ左手。
その指先までもが優しい…

私たちの心に潤いを与え続けてください。

※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

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