後白河法皇の極楽浄土  千手観音 (京都 三十三間堂) .

京都の三十三間堂(別名 蓮華王院)。
千体の千手観音は見るものを圧倒し、創られた当時盛んだった「物量信仰」の凄まじさを現代に伝えます。
その中尊に当たり、千体の千手観音を左右五百に分け、中央に座するのが、この国宝「千手観音坐像」なのです。

「慶派」の流れを汲む大仏師、湛慶(たんけい)82歳の作と伝えられ、端正なお顔に壮重な体躯を持つ素晴らしい千手様です。
光背には三十三観音が配置され、天井には豪華でシャンデリアのような壮麗な天蓋を掲げていて、それら全てが金箔で彩られている。
左右に配置された千手観音たちも金ピカで、もうここまでくると普通なら金ピカだらけで目が疲れそうになるのですが、疲れるどころか逆に落ち着くのはやはり千手さまたちのお陰なのか‥

この三十三間堂の創建に欠かすことが出来ない人物が、後白河法皇なのです。
元は平清盛に創ってもらったこの三十三間堂に後白河法皇は千体の千手観音を発願したのでした。

後白河法皇。
源頼朝に「日本第一の大天狗」、父の鳥羽上皇には「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」とまでに酷評された怪人物。
彼は院政を復活させた折、院宣(いんぜん)という名前の命令を状況の変転にあわせて濫発する。
例えば源氏追討の院宣を平家に出したかと思うと平家追討の院宣を今度は源氏に。
今度は木曽義仲に平家追討を、また今度は源頼朝に木曽義仲追討を‥
こんな感じで、力のあるものに、または頼れるものにすぐ付こうとする。
それが祟って、それまで頼りにしていた清盛や義仲に焼き討ちや幽閉などのクーデターを何度も受ける(当たり前と言えば当たり前)。

しかしそれでも何度も復活して、影で政権を操ろうとするパワーはどこから来るのか‥?
それがこれらの千手観音からだと言われています。

「平家物語」の作者でもある後白河法皇は、この三十三間堂に関しては、どこにも触れておらず、派手な法要など行わずにいつも扉を閉めていたそうです。
後世「通し矢」でこの三十三間堂が有名になった時も、絵巻物や浮世絵で何度も描かれているのにどれも硬く扉が閉められている。
まさにここは法王の「プライベート極楽浄土」だったと思われるのです。

乱れに乱れた時代‥
平家が隆盛を極めたかと思うと、今度は木曽義仲が平家を追い出して都入りする。次に平家が滅びて頼朝が実権を握る。「明日は自分も死ぬかもしれない」そういった不安に駆られ、「強いものに付く」そういった生き方を貫いた法王。
当時盛んに行われた「物量信仰」もこういった背景があったためなのでしょう。たくさんの仏達に拝んで安らぎを与えられる。
観音の霊地である熊野へ御幸を重ね、なおも誰にも知れず、ひっそりと千体の千手観音すがろうとする法王‥

現在のこの「千手観音坐像」は実は2代目で、鎌倉中期の1249年の火災で焼失。火災の時に運び出されたのは中尊は首と左腕のみだったそうです。その焼失した中尊を模して創られたのが現在の湛慶の作「千手観音坐像」なのです。

「千手」と名乗っていますが、千体の千手と同じで、42本しか腕はありませんが、壮大な面持ちで、真相千本の腕を持つ観音様以上に圧倒されつつも、「ありがたみ」を感じさせられるところが凄い。

今は一般公開され、誰もが三十三間堂に入って千体の千手様や、この「千手観音坐像」を拝観することが出来るのようになっている。
かつて「日本第一の大天狗」とまで呼ばれた法王が見たらどう思うだろうか‥・?

「わしだけの極楽浄土が‥」なんて嘆いたりして‥(笑)

端正なお顔。グッときます。

千体の金ピカの千手観音。これらを一まとめにするのがこの中尊である千手観音坐像。

台座・光背を含めると6mを超える巨像です。
湛慶さん、82歳でいい仕事します。

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