ごまかすことの出来ない「第三の眼」  
     不空索観音像    (東大寺 法華堂)

宝冠が凄い豪華。額には「第三の眼」。この眼差しの前ではもう何も誤魔化すことは出来ません

法華堂内のすさまじいばかりの仏像たちを従えて中央に立つ「不空索観音」。カッコいい!

奈良東大寺の法華堂(別名、三月堂)。その本尊に当たるのがこの国宝「不空羂索観音」です。
三目八臂(さんもくはっぴ)、つまり三つの目と八本の腕の異型の仏像であります。

法華堂内で十数体にも及ぶ国宝、重文のすばらしい仏像たちを従え、デンと中央に構える様は、とてもしっかりしていて、どちらかというと細身なのですが、後ろの光背が低い位置にあることにより、私的に見るとかえって安定感を増しているように思えるのです。それが故に、左右に配置されたこの本尊より背の高い「帝釈天」と「梵天」より一回り大きく、立派に見えるのです。

仏教では宇宙のことを「空」といいます。「不空」というのは宇宙の外にいる人々も含めて、つまりあらゆる全ての衆生を漏れも無くという意味だそうです。

「羂索」とは古代インドで狩猟や戦闘で使われていた「網・ロープ」のことであります。

つまり「不空羂索観音」はありとあらゆる衆生を一人の漏れも無く、網で一網打尽にするかのように一度にまとめて救うことが出来る、壮大な最高の法力を持つ観音様ということだそうです。

長い間、薄暗い法華堂内部に居られた為か、修復が施されためかよくわかりませんが、金箔がきれいに残っており、威厳高い顔つきで「私が一度にまとめて救ってあげましょう」と自信にあふれた堂々とした体躯であります。額にはごまかすことの出来ない「第三の目」を持っており、ここからレーザービームが発射されるかのようで、この目で睨みつけられたら「どんな嘘でも白状しちゃいます」という気にさせられます(大袈裟)。

八本の腕の中で、中央で合掌した手のひらで宝珠の水晶を挟んでおり、向かって右の一番下に来る手には投げ網である「羂索」を持っています。

頭に載せた宝冠がまた凄い。ヒスイ、メノウなど、約2万5千個(!)もの宝石を銀の糸で繋いでおり、これだけでもすさまじい宝冠であることをお分かりいただけるでしょう。
「東大寺のすべて展2002」で、この宝冠のみ奈良国立博物館に展示したときは、真っ先に見に駆けつけたことがありました。普段は薄暗い法華堂で、はっきり拝むことが出来ないので、展示された国立博物館で、目の前でじっくり舐めるように(イヤラシイ表現)拝ませてもらい、その精巧な作りに感嘆させられたことを思い出します。

私はこの法華堂内を一つの「ワールド」と思っています。
他の寺院の「○○堂」、「○○院」などでは大体、入り口と出口が別にあり、拝観者が順路通りに入って、流れるように出る。つまり、外と空間的に繋がっている感じですが、この法華堂の内部は入り口と出口がひとつであり、中が袋小路状態、つまり外と遮断された別世界、部屋の中、「ワールド」という感じがしてなりません(この表現わかります?)。しかも、いつまで居ても怒られません。だから仏像と落ち着いて向き合える、会話が出来る空間だと思っています(拝観者も少なめですし)。仏像以外あるのは、ゆっくり仏像と向かい合って座れるように用意された畳だけ‥。

「見仏記」のみうらじゅんではないけど、私も白状すると法華堂内に一人でいたときに、あまりにも居心地のよさで畳の上で、ウトウト座ったまま寝てしまった事が一度だけありました。ご本尊の「第三の目」からのレーザービームで罰が当たりそうですが、足を向けて寝たわけではないので許してください‥。
厳しい眼差しですがなぜかこれが癒されるのです。見仏クラブの「見仏ツアー」で奈良に行ったときは必ずここにやってきます。やはり私たち疲れたおじさんは、どこかで「癒し」を求めているのか‥。天平時代は本当に病気などで苦しむ人たちや、戦(いくさ)で苦しむ人たちを救っていたのですが、現在では「癒し」を求める人々に対象が変わっても、いつまでも人々を一まとめに「羂索」で救ってください。

しかし「不空羂索観音」(ふくうけんさくかんのん)、なんてカッコイイ名前なのでしょう‥。仏教の言葉で「名詮自性」(みょうせんじしょう:名前は体を表す、の意)を地で行く「不空羂索観音」です。

PS:東大寺に行ったら大仏殿、二月堂で終わりにしないで、法華堂にもぜひ寄ってみてください。きっと癒されます‥‥あっ、こんなこと書いて法華堂に人が増えたらゆっくり見仏できなくなる。

※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。
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