行き作は高野山に決定

10月12日の朝、奈良高畑のビジネスホテルの一室で当日の行き先を決めかねていた私。
吉野の金峯山寺では巨大な秘仏「蔵王権現立像」が開帳中であること、女人高野の室生寺にも行ってみたいし…
で結局、高野山に向かう事に決めたのでした。
その理由として、奥の院にある「大秦景教流行中国碑」を見たいがためです。
「大秦景教流行中国碑」とは、かつて唐の時代に長安にあった景教(キリスト教の一派)寺院「大秦寺」の碑で、1623年に現在でいう西安で土中から発見された碑なのです。その碑のレプリカが景教研究家のA・ゴルドン女史によって高野山の奥の院に建てられたのです。
景教とは…
キリスト教ネトリウス派が宗教会議で異教の烙印を押され、ローマを追われて東へ転々として、7世紀に中国(唐)に伝わった時に景教と呼ばれたそうです。唐では玄宗皇帝の保護を受け、最盛期を迎えたと言われています。しかし武宗皇帝の時代に道教以外の宗派は弾圧を受け、大秦寺は徹底的に破壊され大秦景教流行中国碑も土中に埋められたと言われています。
A・ゴルドン女史は親日家で日本の文化を愛し、墓も高野山にあるという。彼女の説では弘法大師空海も唐に留学中、大秦寺にて景教に触れていた可能性があり、弘法大師の思想の中には、キリスト教をも取り入れていた可能性があるという説。この碑の碑文を起草したのが、空海が留学中に交際のあった景浄というペルシャ僧だそうです。
私は景教(キリスト教ネトリウス派)に関してはあまり興味が無かったのですが、司馬遼太郎の「兜卒天の巡礼」という小説で「大秦景教流行中国碑」に関して興味が湧き、そのレプリカがA・ゴルドン女史によって奥の院に建てられたことを最近TVで知って、是非見たいと思っていたところでした。
景教と高野山の関係の詳細を更に書くと枚数が足りなくなるのでこの辺でやめておきます…
前置きが長くなりましたが、そういう理由で車を高野山に向かって走らせることにしました。
狭い山道を走り続けてようやく到着した高野山、私にとって実に20年ぶりの高野山です。


奥の院にて

奈良から約3時間かかって到着した高野山。駐車場に車を停め、降りた瞬間「寒っ」。標高800m以上の地にある霊地です、当然です。まず奥の院を歩くことに。駐車場が「中の橋」あたりの位置だったので、一旦「一の橋」まで外から歩いて行ってからあらためて御廟までの参道を歩くことに。「一の橋」を渡って参道に入ると空気が全く違いますね。ひやっとした空気が更に刺すように痛く感じられる。上着を着ていなかったので、シャツの腕まくりを伸ばす。
歩きだして10分ほどでお目当ての「大秦景教流行中国碑」に到着。高さ3メートルほどあろうかと思われるほど巨大で重量感のある石板です。銘文を見ると漢語とペルシャ文字(?)が入り乱れており、そこには景教の歴史が刻まれていと言われていますが私にはもちろん読めません。碑の上部には二匹の竜が絡み合って、十字架も半肉彫されています。
何かこの碑から近寄りがたいオーラが出ているように思えてしまう。ローマ、コンスタンチノーブルから逃れてこの地で隆盛を極めた景教。やがて弾圧を受け、滅亡を目にしてきた石板。
SF映画の「2001年宇宙の旅」では、謎の黒い石板状の物体「モノリス」が出現して人類に知恵を授けたり、必要以上の高度な技術を身につけて滅亡に向かっていく人類に警告を与えたりしていく…
何故かその「モノリス」を思い出したりして…
しばらくぼーっと碑の前に立っていると多くの拝観者たちが「明智光秀の墓はこのあたりかな?」「武田信玄のお墓はこの先かな?」なんて会話しながら私を通り過ぎていく。この碑に関して興味があるの私くらいか…
さあ先に向かいましょう、目指す先は弘法大師が待つ「御廟」です。
参道の脇には、有名な歴史上の人物の墓が多数あります。
しかし私は参道から一歩墓地の中に入った所に無数にある名もない人々の墓に興味がわきます。朽ち果てて、もうただの石の塊になり果てようとしている石仏や墓たち。いずれは土に還ってその上から新しい墓が立つ。輪廻転生を願い、この地に自ら死後の骨を埋めるように願い出た人々の思いの上にまた新しい思いが堆積されていく…
実際にはこの奥の院にある墓の数は多すぎて、誰にも解らないと言われています。墓の下にいくつの墓が埋まっているのか…。この奥の院から2キロ以上先にある「大門」の修復に合わせて付近の土壌を掘ると、おびただしい数の墓石が出てきたそうな…奥の院だけではなく、高野山全体がもう墓地、霊地なんでしょうね…

「御廟」前にある「御廟橋」を渡ると、そこから先は弘法大師のいる聖地。写真撮影禁止、私はカメラをバッグの中に入れ、脱帽、一礼して橋を渡ります。
燈籠堂(拝殿)の前では僧侶の方が待っていて、お香を渡してくれます。それを体中にこすりつけて堂内に入ります。
薄暗い広大な堂内では、沢山の僧侶の方が読経しており、堂内は荘厳な雰囲気で満ち溢れていました。内陣奥には扉が開けており
燈籠堂の向こうにある「大師御廟」が見えます。貼り紙には「静かにお参りしてください」。私は静かに般若心経をを唱えます。
燈籠堂をでようとすると、僧侶の方が「御廟にお参りに行ってはどうですか?」と訊いてくる。
「えっ、御廟の前まで行けるのですか?」
「ええ行けますよ」
そうか20年前はそんなことも知らず燈籠堂から奥に見える御廟を望んでお参りしただけで終わったのですが、御廟前まで行けるとは…
燈籠堂を回って御廟前まで行くと、西国三十三ヵ所巡りを満願したお遍路さんたちが20人ほど「般若心経」を唱え始めていました。
私もその集団に加わって後ろから、般若心経(途中から)・回向文を唱えました。
さあ次は霊宝館と壇上伽藍に向かいましょう。
一旦「中の橋」の駐車場に戻って、そばにあったみやげも屋の2階で名物「和歌山ラーメン」で体を温めて休憩。そこから車で5分ほど走らせて、壇上伽藍手前の駐車場に停めました。


深沙大将に違和感を感じる

まずは霊宝館に向かいます。実は恥ずかしながら霊宝館は初めてです。中には重要文化財の仏像たちが多く展示しており、私が会いたかった快慶作の「深沙大将」を特にじっくり見仏しました。ちなみに対の「執金剛神」は修復中で居られませんでした(残念)。
お腹の人面、首に巻いた髑髏など欠損した部分は無く、ほぼ完全な形で残っています。リアルな怖さに息をのみました。が、何か違和感が残る気がしました。…
うまく説明できませんが、リアルな怖さを追求したのは解りますが、仏像としてというより何かフィギュアを見てるよういな錯覚に陥ってしまうのです。現代のアニメに出てくるような鬼(このばあいデビルと言った方が良いかも)のように思えてしまう、怖さはあっても…
以前、舞鶴の金剛院で見た同じ快慶作の無名時代の「深沙大将」は、怖さだけでなく迫真の表情でこちらに迫ってきました。いかにも悪疫の難を除く旅人の「守護神」といった頼もしささえ感じられるお方でした。それは対になっている「執金剛神」にも言えました。従って私は金剛院の二人に向かって「世界最強タッグ」と命名したほどでした。
しかし高野山のお方は、怖さを感じても守護神としてはどうか…
確かに肉体表現は「あり得ないアバラの浮き出方」などデフォルメした部分はあり、それが人間を超えたリアリティを、違和感を抱くギリギリのところでまとめ上げた快慶の仕事の見事さは流石だともいます。しかし「守護神」としての頼もしさより怖さが先に立ってしまうのです(深沙さんスイマセン)…
今回は修復中で写真でしか拝めなかった「執金剛神」にもそれが感じました。
その違和感が、後にも続いて他の素晴らしい仏像を良く覚えていなかったのが残念。
その他で是非見仏したかった、運慶作の「八大童子立像」(制多伽童子像と矜羯羅童子像)・「孔雀明王」が展示されておらず、見れなかったのが悔い。


壇上伽藍にて

壇上伽藍は霊宝館から歩いて5分位の距離でした。
丁度「中門」が復元工事中で、巨大な門を覆う足場の中で中門が建てられようていていました。
まず巨大な根本大塔(多宝塔)の内部に入る。内部の密教世界観に圧倒されまくりました。大塔内中央に本尊の胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、堂内16本の柱には十六大菩薩が描かれております。壁には「真言八祖」も描かれており、まさに大塔内部も立体曼陀羅状態です。その時外から「ゴ〜〜ン」と巨大な鐘の音が聞こえてきました。地獄の底から響いてくるような音に驚きました…
外に出ると修行僧の一人が巨大な鐘楼を鳴らしていました。あまりにも大きい鐘の為、鐘を衝く撞木(しゅもく)を鐘と反対側から鎖で引っ張って衝いているのには驚きました。大変な重労働です、これも苦行か。
続いてどこからともなく多くの修行僧たちが足早に整然とやってきて、真言・般若心経などを各堂宇の前で唱えてはじめました。勤行の始まりです。壇上伽藍に読経の声が響いて聞いているこちらも気持ち良くなります。思わず私も釣られて般若心経を唱えます。
壇上伽藍の各堂宇のお勤めが終わって、修行僧たちが足早に去ったころを見計らって、私もそろそろ姫路に帰ることにしました。


私にとって20年ぶりの高野山、来てよかった。


この3日間、本当に充実したお寺巡り&巡礼の旅でした〜
初日の湖東・湖北で出会った世話方のおばさん達。奈良夜明け前、2月堂で出会った地元のおじいさんおばあさん達。そして旅先で出会った素晴らしい仏像たち。この旅を許してくれた家族…
全てに感謝しながらハンドルを握る…

しかしもうすでに5年後の長期連休には「何処へ行こうか?」なんて思いを巡らせてしまう私でした(気が早すぎるか?)。

多くの修行僧たちの勤行が始まりました。

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壇上伽藍にて、根本大塔。

大きな鐘を撞木を反対側から引っ張って鳴らしていました。まさに重労働です。

奥の院「御廟橋」の手前。
ここから先は真の聖地。写真撮影禁止、脱帽・礼拝して橋を渡りました。しかし橋を渡る前に「水かけ地蔵」にお参りするのをすっかり忘れていました…

「大秦景教流行中国碑」の上部。
異様な二匹の龍が絡まりあっています。中央に十字架が彫られています。唐の時代に長安にキリスト教寺院があったとは驚きです。

  2012年10月12日 高野山にて
   (高野山 奥の院 霊宝館 壇上伽藍)

ご存じ「奥の院」。弘法大師のいる御廟へ続く1kmの参道(墓地)です。

大秦景教流行中国碑(レプリカ)。
巨大な碑です。何故か近寄りがたいオーラを感じてしまった私。しかしこの地にこの碑を建てたゴルドン女史の熱意を感じます。

奥の院参道から一歩中に入ると、無数の石仏や墓石が打ち捨てられていました。何時かはこれらも土に還っていくのでしょうね

霊宝館。一部改修中でした。




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