神護寺の金堂の本尊である、国宝薬師如来立像。
神護寺の前身である「神願寺」のころからの本尊と言われており、延暦年間に造られたといわれています。

目・唇・螺髪(らほつ)以外は、彩色されていない重量感あふれる仏像です。両手先以外は、檜の素木(しらき)一木作りで、奈良後期から平安初期の特徴を表した威厳に満ちたお方…

というのは一般的な見方ですが、よく見ると仏像作りのセオリーを完全に無視して造られていることがよく分かります。
特に顔。じっくり見ると、完全に「ゆがんだ顔」。
通常の薬師如来というのは、顔は左右対称ですが、この薬師如来は完全に左右は非対称。ゆがんだ鼻筋、しかも唇と鼻筋の位置がずれている。
平安以降の如来像としては、異例といえる「白毫(びゃくごう)」のない額。
体躯をみると、太い太腿、薬師如来としては異例といえるほど高く捧げた「薬壺」。そして像高約170pとなると完全に「仏像」としてではなく、「人間」として造られたのか?とさえ考えさせられてしまう。
まさに異様な生々しさがにじみ出ている仏像と言えるでしょう…

「人間」として造られたのなら、誰をモデルにしたのだろうか?

この仏像は、あの怪僧「道鏡」の怨霊封じのために造られたものではないか?と言われています。

道鏡(どうきょう)…
河内(現在の大阪)の一介の僧であった道鏡は、女帝である孝謙天皇の病を治したことから寵愛を受け、僧侶として天皇に次ぐの地位(太政大臣禅師)まで任命される。まさに異例の抜擢である。
そして孝謙天皇が皇位を退いたあと、次に即位した淳仁天皇が二人の仲を批判すると、何と女帝は淳仁天皇の皇位を剥奪して淡路島に流してしまい、再び「称徳天皇」として即位する。
その後、道鏡に反対する権力者たちの地位を次々に剥奪していく女帝。
そして淡路島へ流された淳仁天皇の謎の死…
そして遂に女帝は、道鏡を天皇として即位させようと考え始める。
この異常な状態、腐敗していく奈良の仏教界を目の当たりにした鑑真は失望し、やがて「大僧都」の地位を辞して、理想郷を求め平城京から離れた地に唐招提寺を建立して身を移してしまう。
そんな折、宇佐八幡からなんと「道鏡を天皇として即位させよ」という神託(お告げ)が出される。天皇家がかつてから崇拝する太宰府にある宇佐八幡からの神託である。しかし奈良時代においても、「神託」により世の中を動かしていたとは驚きです。
この神託により女帝は大喜びする。
しかし実はこれには裏があり、時の大宰府の長官はなんと、道鏡の実弟の弓削浄人(ゆげのきよんど)であった。完全なる道鏡による陰謀である。そしてこの陰謀を暴くために、和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡まで出向き、本当の神託である「道鏡には皇位は継がせるべからず」を持ち帰った。
女帝は落胆、道鏡は怒り、和気清麻呂を大隅国(薩摩)に流してしまう。しかし翌年、突如女帝は病に倒れ、そのまま崩御する。後ろ盾を失った道鏡も、失脚して左遷され、その二年後に没する(道鏡事件)。

その後に政権に復帰した和気清麻呂が、道鏡の怨念が今後災いを起こさないように、厳しい顔つきの薬師如来を造らせたといわれています。

しかし私は、この像は怨霊を跳ね返す「薬師如来」というより、「道鏡」そのものをモデルに造らせたと考えてしまうのです…
これはもう薬師ではなく、ゆがんだ顔、封じ込められて苦しむ道鏡そのものではないか…
(ベストセラー『隠された十字架』で哲学者の梅原猛氏が論じた、聖徳太子の怨霊封じのために太子に似せた「救世観音」を造らせた、という考えに似ているといえば似ていますが…)

私はこの像は、実は未だに未見で、いつかは神護寺に行ってこの像をじっくり見てみたいが、何か怖いものが潜んでいるようで…

しばらく神護寺には怖くて行けそうにありません…

左右非対称のお顔。
私は薬師如来というより、ゆがんだ人間の顔に見えてしまう。
それは封じ込められた道鏡の「もがき苦しむ」顔なのか?
それとも道鏡に打ち勝った、和気清麻呂の「ゆるぎない信念」の顔なのか?

私は前者だと思う…


しかし本当に怖いお方…

■ HOME

■ BACK

封じ込められた道鏡なのか? 薬師如来立像(京都 神護寺).
※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

異様なほど、「生々しさ」がにじみ出ています




■ HOME