京都 平等院鳳凰堂。
藤原頼通(よりみち)が自分自身のために建立した「阿弥陀堂」でもあります。

父である藤原道長があまりにも巨大で偉大であったため、道長の死後に凡人であった頼通は、京の都から離れた宇治の地に鳳凰堂を建立し、時に政務をほったらかして堂内で瞑想にふけっていたのでした…
父親の道長は強運の持ち主で、才色兼備の娘たちを次々に後宮に送り込んで地位を確立していったが、息子である頼通には娘は少なく、後宮に送り込んでも皇子(男子)が生まれなかった。従って父の余映で繁栄は出来ているものの、摂政家の衰退は免れないというありさま。
不安に耐えきれず、父よりも早くに信仰に逃げ込んだ頼通。

鎌倉期に法然が興した浄土信仰の称名念仏(声を出して阿弥陀仏の名号を唱える)に対して、平安中期から後期、すなわち「末法思想」のはびこるこの時代の浄土思想は、瞑想によって阿弥陀仏の居る浄土観を思い浮かべる「観想念仏」が重要視されていたのでした。
この阿弥陀仏の手と自分の手を、糸(み手の糸)をつないで念仏を唱えながら瞑想する頼通。

当時の貴族にとって、何より恐れたのは「死の恐怖」であり臨終する時の苦痛。
摂政だろうが天皇だろうが誰にでもやってくる死。当時の浄土思想の中で特に重要視されていた、いかにして安らかに死ねるか?という「臨終正念(りんじゅうしょうねん)」。
政敵の死による祟り、疫病、暗殺…苦しみながら死んでいく者たちを目の当たりにしながら生きていかねばならない。
頼通の父である道長をはじめ藤原氏が浄瑠璃寺・法界寺・三千院・法金剛院、そしてこの鳳凰堂など阿弥陀堂を各地で建立していく。

ところで頼通は鳳凰堂で何を表現したかったのだろうか…?
私はこの堂内に居られる阿弥陀如来のお顔を見て、これまで見た「阿弥陀如来」と違う何かを感じられるのです…。
特に目。
通常の阿弥陀如来は半眼で三昧(さんまい)に入った状態で瞑想していると説かれているのですが、この阿弥陀如来は他のお方たちよりも更に瞼が重く感じられ、瞑想しているというより本当に閉じかけているように思う。ここに頼通と希代の仏師、定朝の強い意図が感じられるのです。
実はこの阿弥陀如来は理想の「臨終を迎えた瞬間」を表しているのは?とさえ感じてしまう。
そう考えると「このような瞑想にふけるように安らかな顔で臨終を迎えたい」という頼通の思いがこの阿弥陀如来に表れているのか…

平等院鳳凰堂。
豪華で金ピカな天蓋。周りを飛び回っている飛天、壁面の「雲中供養菩薩」。私は頼通の理想とした浄土というより、この場所で死に、そのまま肉体ごとこの場所に留めてほしいいう願いが込められていたのではないか。そう思うと、ここは「阿弥陀堂」というより、頼通の理想とした「墓所」なのかもしれない。
エジプト王家の墓、石棺室と似ていると考えるのは想像が飛躍しすぎているのだろうか…?
実に83歳まで生きたといわれる頼通がどんな死に方をしたか私には分かりませんが、頼通の死に怯えた心の内は900年後の現代でもこの鳳凰堂、阿弥陀如来の内にしっかり「生き残っている」…

創造主である頼通と定朝はもうこの世にはいない。
「役目」を終えたこの阿弥陀如来は今、何を伝えようとしているのか?
今度鳳凰堂に行く機会があったら、この阿弥陀如来にじっくり聞いてみたいと思う。

定朝の作品で確認されたただ一つの作品、国宝「阿弥陀如来坐像」。
今まで私の見た阿弥陀如来よりも瞼が特に重く、今にも閉じそうに感じられてなりません。今まさに「臨終」を迎えた時の顔なのか?

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豪華な天蓋、雲中供養菩薩たち…浄土というより「墓所」と思うのは私だけだろうか

頼通の理想とした死顔か 阿弥陀如来坐像(平等院鳳凰堂).
※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                



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