英国の歴史



イギリスとフランスが中が悪い理由は(百年戦争)


もとはフランスの諸侯の一人が英国を支配していたわけなので、イギリスとフランスは兄弟のようなものだと思うのですが、この2大国は今でも仲が悪いですよね。
ナポレオンですらイギリスを征服することはできませんでした。「憎っくきイギリス」に対してナポレオンは海上封鎖をして貿易国イギリスを兵糧攻めにしようとしますが、フランスも特に北部フランスはイギリスとの貿易によって成り立っており、この政策にフランス内部からナポレオンに対する批判が高まります。ナポレオンはこの批判の目を外に向けようと、あの悪名高いロシア遠征を始め、自ら自滅していくのでした。
この二国の怨恨の元はたぶん百年戦争ではないかと思います。百年戦争(1337-1453)は最初のヨーロッパ戦といわれています。長い長い話で、フランス王家とイギリス王家は血縁関係も複雑にからみあっています。

1.因縁の始まり
先に手を出したのはフランスでした。ノルマンディー公ギョイヨームが1066年にイングランドを征服したのは先に述べました。イングランドのノルマン人支配の時代(1066-1154)には、征服されたサクソン人達は憎きノルマンと思ったことでしょう。
この後、イギリスはフランス諸侯と縁戚関係をもつことでフランス領土を獲得していきます。この頃はまだ国家という概念が確立していないので、英国王は仏王の諸侯の一人であるという関係でした。
1180年にフィリップ2世がフランスの王位に着いたときはフランスの西半分をイギリスが支配するようになっていましたが、フィリップ2世は智謀に優れ国勢を立て直していきます。一方、その時のイギリス王ジョンは愚昧でフィリップ2世の謀略にはまり、ほとんど戦わずしてフランスにあった膨大な英国領を失いました。ジョン王はフランス人からジャン・サン・テール(失地王)と嘲れました。
英国民もジョンに愛想をつかして、フランス太子ルイをイギリスに招き入れるようにして、フランス軍のロンドン攻略を許します。しかし翌年1216年にジョン王の息子ヘンリー3世が即位すると、英国民はヘンリー3世を支持しフランス軍を追い出します。

その後、フランスでは1328年にカペー家最後のシャルル4世が世継を持たずに亡くなり、従弟のヴァロア家フィリップ6世が即位します。この時、シャルル4世の妹イザベルが英国王エドワード3世の母親であることから(エドワード3世はシャルル4世の甥)、従弟よりも甥の方が血縁関係が強いという理由でエドワード3世はフランス王位の継承権を主張します。しかしフランス側は王位の男子継承を定めたサリク法を盾に応じませんでした。イザベルの息子だと母系に継承することになるという訳です。
ここに至って、エドワード3世は我に正義ありと1337年フランスに攻め入り百年戦争が始まったのでした。

2.百年戦争の経過
イギリス海軍はまずフランス海軍をレクリューズ沖で壊滅させ制海権をとります。
これによってフランス進出が容易になり、エドワード3世は1346年の「クレシーの戦い」で大勝利を納めます。
翌年にはカレーを攻めてこれを陥落させ、フランス進出の橋頭堡を築きます。
10年後の1356年、エドワード3世は息子のエドワード(黒太子)と共にまたもフランスに進攻し、エドワード黒太子が「ポアティエの戦い」でフィリップ6世の後継ジャン2世の大軍を破って大勝利します。
ついに、1360年プレティーニで和議が成立し、イギリスはフランス領土の半分を所有するまでになりました。

戦争はイギリスの勝利で終わったかに見えましたが、1364年に即位したジャン2世の長男シャルル5世は英知に富み、名将デュ・ゲグラン元帥をたてて巻返しを図ります。
イギリスではエドワード黒太子が1376年にペストで亡くなり、次いで翌年にはエドワード3世も世を去ります。エドワード3世の孫リチャード2世、次いでヘンリー4世が王位につきますが、イギリスは敗退を続け1380年頃にはカレー等の一部地方を除くほとんどの領土を失っていました。この頃イギリスでは、フランスとの戦費を賄うため課した人頭税が元で大規模な一揆が勃発するなど国内が安定していませんでした。

しかし、1413年にヘンリー4世の息子ヘンリー5世が王位につくと、太子時代の放蕩とは打って変わって失地回復に情熱を燃やすようになります。一方フランスでは聡明なシャルル5世が世を去り、シャルル6世(狂王)が王位につきましたが、即位間もなく精神を病み幽閉されてしまいます。このためフランス国内は乱れ、アルマニャック派とブルゴーニュ派に別れて内戦に明け暮れます。武勇に優れたヘンリー5世はこの機を逃さず、大軍を率いてフランスに進攻し、1415年の「アゼンクールの戦い」でフランスに壊滅的な打撃を与え、1417年にはノルマンディーを征服しました。
1420年にヘンリー5世は「トロワ条約」を締結し、かつてのイギリス領土を奪回したばかりでなく、シャルル6世の娘カトリーヌ(英名キャサリン)を妻とし、ついにイギリス王にしてフランス王となったのでした。(ここのくだりは是非シェークスピアの「ヘンリー5世」を観てください)

しかし因果は巡るもので、ヘンリー5世はフランス王即位のわずか2年後に世を去り、生後9ヶ月のヘンリー6世が後を継ぎます。ヘンリー6世は父の武勇のかけらも受け継がず、狂王シャルル6世の血をついでか精神を病んでいたとも言われています。
このため、ヘンリー5世の二人の弟ベットフォード公ジョンがフランスの摂政、グロスター公ハンフリーがイングランドの施政官となりヘンリー6世の補佐にあたりましたが、摂政の座を巡って争い国情乱れました。
一方、シャルル6世の息子シャルルはトロワ条約に反してフランス王シャルル7世を名乗り、南フランスにわずかに残った領地を転々としていました。
1428年英ベットフォード公爵軍はシャルル7世の最後の砦とも言えるオルレアンを包囲し、オルレアン攻略は時間の問題でした。この時、ドン・レミー村に農夫の子として生まれた17歳の少女ジャンヌ・ダルク(1412〜31年)が彗星のように現れ、1429年5月にフランス軍を率いてオルレアンを解放します。ここからジャンヌ・ダルクは「オルレアンの少女」とも呼ばれています。オルレアンの少女は僅か数ヶ月の間にイギリス軍をことごとく打ち破り、同年7月ついにシャルル7世はランスで戴冠式を挙行しました。
しかしジャンヌ18歳の1430年5月、コンピエーニュ城外でジャンヌはイギリス軍に捕らえられ、欺瞞に満ちた魔女裁判にかけられて翌年5月に英兵の手によって火焙りにされたのでした。ジャンヌの訃報を聞いたシャルル7世は苦しみ悶え「イギリス人どもには必ず復讐してやるぞ!」と叫んだそうです。フランス人の全てがそう思ったに違いありません。

1435年アラスの和議が決裂した後、戦局は急にフランスに有利に展開しはじめます。1436年にはパリを奪還し、1453年ついにフランス全土からイギリス軍を撤退させ戦争は終結しました。

3.フランスの被った損害
百年戦争でフランスの人口は三分の一に激減しました。フランスが失った人口を回復するには300年もかかりました。
度重なる戦争と略奪によって農村は壊滅的状態になり、飢饉のためにパリ近郊では人肉食らいが横行したほどでした。フランスは正に滅亡の危機にさらされたことになります。

4.まとめ
イギリスとフランスは互いに侵略を繰り返した歴史があり、これが両国のトラウマとなっているように思えます。特にフランスが受けた被害は甚大でした。神の命によってイギリス軍と戦った聖少女ジャンヌ・ダルクを偽りの裁判によって火焙りにしたことは許しがたい感情を残したに違いありません。