レトロゲームレビュー/名作、クソゲー等ファミコン時代から網羅

Play Station
   〜運命の子、次世代ゲーム機戦争の勝者〜

Maker :SONY COMPUER ENTERTAIMENT
種別 :CD-ROM内蔵型家庭用テレビゲーム機
発売日:1994年


 数奇なハードである、1990年代初頭、任天堂はスーパーファミコンの次世代
ハードとしてCD-ROM機を開発していた。
そして、CD-ROM開発のノウハウを持たない任天堂がパートナーとしたのがSONY
である。

 ところがこの「次世代スーパーファミコン」は発売されることもなく歴史の
闇に消えて行く運命にあったのだ。
CD-ROM機となった「次世代スーパーファミコン」のプロトタイプを見て難色を
示したのは任天堂側だった、理由は「読みこみ時間が長すぎる」という点であ
る。
それまで任天堂が供給してきたゲーム機はディスクシステムを除いて、全てRO
Mによるソフト供給を行ってきた。
ROMはCD-ROMに比べて容量が少なく、また単価が非常に割高である反面、ゲーム
立ち上げ、ゲーム中の待ち時間が殆ど無い。

 任天堂という会社は、ゲーム機は「ゲームに特化したコンピュータ」ではな
く、あくまでも「ゲームをする為の道具」つまり、遊び道具の延長であるとい
う理念を持ち、その理念により成功してきた会社である。
その為、ゲーム起動時、ゲーム中に予想以上の待ち時間が入るということにど
うしても我慢ならなかったのだろう。

 任天堂はSONYとの契約を解消した後、今度は磁気ディスクシステムに目を付
け米国フィリップス社と共同開発に入る。
しかし、最終的に任天堂がリリースするのは、磁気ディスクシステムのハード
ではなく、NINTENDO 64という旧来のROMカートリッジ式のハードであり、後年
64DDとして磁気ディスクシステムは、NINTENDO 64の増設機器としてリリー
スされるものの、小売店では販売されず、成功したとは言いがたい。

 さて、問題はSONYの方である。
SONYの手元には、プロトタイプだけが残ってしまった。
これを捨てるか、それとも、開発を継続しSONYの名前で世に出すか、という2
つの道を選択せざるを得なくなった。
最終的に、SONYはこのハードにPS-Xという仮称を付け、ゲーム機として開発を
続行し、最終的に"Play Station"という名前でリリースすることとなる。

 Play Stationがリリースされた1994年暮は「次世代ゲーム機戦争」と言われ
た時期で、まず松下が先陣を切って3DORealをリリースし、NECからはPC-Enzin
eの後継機、"PC-FX"、「永遠の2番手」セガは社運をかけて32bitツインCPUを
搭載したセガ・サターン、そして、任天堂は世界初の64bitゲーム機、NINTEND
O 64の発売をアナウンスしていた。

 その渦中で発売されたPlay Stationが最終的に市場を席巻し「一人勝ち」す
ることとなる。

Play Stationの勝因は、まずソフト価格を引き下げたこと。
当時新品ゲームの価格は9800円程度だったが、Play Stationは5800円という標
準価格を打ち出した。
この為、セガや任天堂も対抗上ソフトを価格を引き下げざるを得なくなる、特
に単価の高いROMでゲームを供給していた任天堂は苦しかったはずである。

 次世代ゲーム戦争では国内有力ソフトハウスからの援護が無く、ソフト不足
によりまず3DOが姿を消し、同じような理由でNECのPC-FXも早々に姿を消してい
った。

 残ったのは、セガ、任天堂、ソニーの三社だったが、任天堂は完全に出遅れ
てしまっていた、NINTENDO 64が発売されたのは1996年、Play Stationやサター
ンから送れること1年半。この時点で既に任天堂が入りこむ余地はなかった。
スーパーファミコンを発売した時も任天堂は、PC-EngineやMEGA DRIVEから大き
く出遅れたが、シェアは揺るがなかった。
しかし、今回はいなかった。64を発売した時、既にゲームの主流はスーパーフ
ァミコンではなく、Play StationとSATURNが移っていた。
その上、ソフト供給がROMでは自ずとゲームジャンルも制限されてくる。

 事実上、セガとの一騎打ちとなった「次世代ゲーム機戦争」だが、ソフト価
格の低価格化、片落ちの名作を安価で供給する"Plasy Station the BEST"など
の戦略を次々に打ち出すソニーに対し、セガは常に後手後手にまわる結果とな
った、そして最後はやはり豊富で強力なサードパーティを引き入れることに成
功したソニーが勝利を収めることとなる。



AXL 2001

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