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家庭用占いゲームの憂鬱


 1990年頃、ゲームセンターで流行ったゲームのジャンルにクイズゲームとい
うものがあった。
これは文字通り、予め記憶されている問題の中からコンピュータがランダムに
問題を選び出し、プレイヤーが選択形式で答えを出す、というシステムとして
は単純なものだったが、当時がこれがなかなか当たったようで、次々に亜流の
ゲームが登場するようになり、やがてその人気は家庭用ゲーム機にも飛び火し
ていった。

 勿論、ゲームセンターでのクイズゲーム以前にもパソコンゲームなどとして
は細々と存在していたが、アーケードでのクイズゲーム人気の余波を受けて家
庭用として最初に発売されたのはおいらの覚えている限りでは、PC-Engine CD-
ROM2版の「クイズ・アベニュー」というタイトルだったと思う。
当時、アーケードで随分とクイズゲームに入れ込んでいたおいらは勿論発売に
購入したが、結論からいうとこのゲーム、どうも期待したほどは面白くなかっ
たのだ。

 アーケードで人気を博した「クイズ殿様の野望」や「クイズ三国志知略の覇
者」等に比べるとシステム的にもシンプルだったこともあるのだが、今にして
思えば実はクイズゲームというジャンルそのものがアーケード向けのものであ
って、家で一人でプレイするよりも、ゲームセンターというロケーションでプ
レイする方が何倍も楽しめるものだったから、のような気がする。

 例えばそれはカラオケのようなもので、いかに家庭用カラオケというものが
8トラカセットの時代から、LD、CDG、通信、ハンディと進化しようとも
いまひとつメジャーな機器になり切れない背景には、一般家庭の広さや防音設
備の問題よりも、みんなで集まってワイワイ歌うからこそカラオケは楽しいも
のであり、部屋で一人で歌っても少しも面白くない、という根本的な原因があ
るような気がするのだ。

 クイズゲームの場合もカラオケ程ではないにしても、仲間やまたは見知らぬ
ギャラリーが自分のプレイを見ていてくれるからこそ感じる一種のナルシズム
的な要因がゲームの面白さの重要な要素のひとつになっていることは想像に難
くない。
「オレはこんなことだって知ってるんだぜ」と無言の内に他人にアピールでき
る楽しさがあるからこそ、人々はゲーセンでクイズゲームの前にコインを積ん
だわけで、これを自分の部屋で一人寂しく遊ぶ・・ということになった場合、
ゲームセンター並のカタルシスを味わうのはなかなかに難しいことだったのか
もしれない。


 勿論、クイズゲーム自身がシステム的な進化を遂げ、単純な「クイズに答え
る楽しさ」だけではなく、前出の「殿様の野望」や後の「子育てクイズ・マイ
エンジェル」等ようにの攻略要素を追加することによって、ある程度家庭用で
も楽しめるタイトルも存在することを付け加えておきたい。


 ところで、「ゲームセンターで遊ぶと楽しいのに家で遊ぶとあまり楽しくな
いもの」の代表としては、クイズゲームを遥かに凌ぐのではないかとおいらが
考えているものに「占いゲーム」というものの存在がある。

 占いというジャンルそのものも、どちらかといえば一人でやるよりも何人か
で集まってお互いの結果を見せ合いながら盛り上がるのがより楽しいから、と
いうことも勿論あるのだが、「家庭用占いゲームの悲劇」の本質はそんな内面
的な問題よりも、「すぐにやることがなくなってしまう」というミもフタもな
いところに起因しているのだ。


 おいら自身は特に占いに興味があるというタイプの人間ではないのだが、長
年ゲームを購入する内にはどうした気まぐれが何本かの占いゲームを購入する
機会、というようなものに恵まれたことがあるのだが、その結果はパッケージ
を開けてから大抵一時間以内に再びソフトをパッケージにしまい込み、殆どの
場合、それっきりそのソフトに触れることは二度と再び無い、ということに決
まっていた。


 勿論、占いゲームにも姓名判断から四柱推命、血液型にタロット占いと種類
こそ色々とあるのだが、「占いソフトを買ってからやること」というのは悲し
いほどに統一されており、まずは自分自身の運勢を占ってみて、配偶者か恋人、
親しい友人のものも占ってみる。
そして、それら全ての結果を読んでしまうと基本的には、占いソフトに期待す
べきこと、の全てはそこで終了してしまう。

 強引に有名人や好きなアイドルの占いをやってみる、という楽しみ方もなく
はないのだが、思えばこれはそのソフトをレジに運ぶ時に期待し、想定した遊
び方ではなく、他にあまりにもやることがない、という苦しい現実を前にユー
ザー自らが創意と工夫によって編み出した、一種の裏技であり、何らかのウル
技といっても過言ではない、そして、自分の占いですら見てしまった後には「
そういうものだったのか」という程度の感慨以上のものを味わうことのできな
いこの種のソフトに於ける赤の他人の占い結果など面白かろうはずもなく、本
当は面白くないのに、投資額を無理に回収せんが為に「面白かった」と強引に
自分を欺かざるを得ないその様はウル技というよりもウソ技といった方が相応
しいかもしれない。


 「占いソフト」の悲劇はそのコストパフォーマンスの悪さに起因している。
例えばゲームセンターで一回遊んで100円、家庭用ソフトをして購入した場
合は5800円かかる場合、普通のゲームであれば、58回遊べば元は取れる
しある程度好きなゲームであれば、飽きる迄に遊ぶ回数としては決して多すぎ
るということはない。
また、たまたまそれが自分のお気に入りのゲームということになれば、58回
どころか5年でも10年でもやりたくなった時にはいつでもプレイすることが
出来るが、占いソフトというのはその性格上、「プレイする回数」というもの
がはじめからある程度決まってしまっている。
勿論、「今日の運勢」的な項目があれば、毎日一回プレイすることも不可能で
はないのだが、よっぽど占いに対して信心深い人ではない限りはこれも、何回
かプレイしただけで「基本的に自分は今騙されている」というたとえのような
い焦燥感と虚無感に苛まれてしまうだろう。


 この先、メジャーなジャンルになることは恐らく無いだろうが、それでも「
家庭用占いソフト」というジャンルは消えることなく細々と続いていくことだ
ろう。
だとすれば、決して多くはないにもせよ、一定数は占いソフト人口というもの
が常に存在するということになるのだが、人は「家庭用占いソフト」のパッケ
ージをレジに持っていく際、一体そのソフトに何を求めているのか、何を期待
し、どこまでの遊び方を想定しながらお金を払うのだろうか、そう考えるとし
みじみと味わい深いソフトではある。



AXL 2003

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