レトロゲームレビュー/名作、クソゲー等ファミコン時代から網羅

最近ゲームがつまらない・・・か?という問題


 オンラインゲームというやつが苦手だ。
おいら自身はまだ一度もオンラインゲームをプレイしたことはないが、コンピ
ュータが相手をしてくれる従来のゲームと違って、生身の人間と共にゲームを
楽しむ方式のオンラインゲームというものは却って気疲れしてしまいそうな気
がするし、何よりも最近、数年ぶりに逢った学生時代の友人がこのオンライン
ゲームにハマっているらしく、飲み屋で酒を飲んでいる時に突然、携帯を取り
出し、「あ、あたしー、ゴメンねー、今日「リアル」で遅くなっちゃいそうだ
から顔出せそうにないやー」などとネット仲間に電話連絡などをしているのを
見た時、おいらの胸には「そこまでしてゲームしたくないな・・・ボク」とい
う思いと、「リアルて・・・!リアルて・・・!!」という何故だか聞いてい
る方が若干恥ずかしくなるような気持ちが急速にこみ上げてきて、この年齢に
なるまで「リアル」といえば、3DOとプラモの「リアルタイプ・ガンダム」くら
いにしか馴染みのないおいらは、「てやんでー、バロー、チキショー」などと
虚しくつぶやきながら、ビールのペースを上げていくしかなかったのだ。


 ところで、「ゲーム脳の恐怖」という本が話題になったのは、もう一昨年の
ことになる。
ゲームばかりやっている子供達の脳には異変が生じており、ゲームは人の脳を
壊していく、という衝撃的な内容のこの本は子供を持つ親達に衝撃を与え、現
在でも著者の講演会などには子供達を案ずる親達が殺到しているそうである。

 反面、この本に対する反論も多く、批判的な意見も多く聞かれるが、いかん
せん、おいらはこの本を読んでいないので、この本の信憑性という面に関して
は何も言うつもりはない。

 おいらが興味を持ったのは、この本の内容よりも「ゲームが子供の脳を壊す」
という説が医学博士の肩書きを持つ学者の手によって提唱された、という事実
そのものなのだ。

 この本が話題になったのは、「ゲームが子供の脳に悪影響を与える」という
衝撃的な説そのものであることは間違いないが、同時に「テレビゲーム」とい
うメディアそのものに子供がのめりこむことについて、良い感情は持っていな
いが、それを真っ向から批判できるほどテレビゲームというものに興味も造詣
もなかった親達にとって「潜在的に待望されていた説」だからではないか、と
おいらは思うのだ。


 ゲームに興じる子供を持つ親達にとってこの本の出現は、医学博士という肩
書きに権威付けされた「正当にゲームを攻撃することのできる」バイブルであ
り、ライセンスに他ならなかったのだ。
おいらがこの本が提唱する説の信憑性に興味がないと書いたのは、その真実よ
りもこの本が話題になることで、少なくともある意味では真実として喧伝され
た「ゲームは悪影響を与える」という設定そのものであり、その設定の上で動
く人々の心の内こそ最も興味深いからである。


 では、何故世の親達は子供の手からテレビゲームを取り上げたがっているの
か、勿論、学校の勉強に影響するだとか、時間の区別もなくダラダラと遊んで
いるからという実害に相当する「影響」があることは確かだが、いつの時代で
あれ、子供の周りには「いい子」であることを妨げる誘惑はそこかしこにあり、
親達はそれらの素晴らしい悪徳と日々悪戦苦闘を繰り返してきたはずなのだ。

 だが、もし仮にこの本が「テレビゲームの悪影響」ではなく、「草野球の悪
影響」を説いた本だとしたら、これほど迄に話題に上っただろうか。
おいらはそうは思えない、テレビゲームの存在が親達にとって脅威なのは、子
供達を虜にするその常習的な魅力よりも、親達にとっての馴染みの薄さに起因
するところが大きいからではないか、と思うからだ。


 自分達が子供の頃にはなかったテレビゲームという未知の存在の虜になる子
供達に親達は不安を覚える。
実際、携帯電話やインターネットが今ほどに普及していなかった、数年前にも
ケータイやメールに興じる子供達は大人達から奇異な眼差しを向けられていた。

 対面することなく、文字だけで気持ちを伝え合うコミュニケーションは希薄
に過ぎ、人の心が伝わらない。
当時、良識ある大人達の口からよく聞かれた言葉だが、この言葉は彼らのケー
タイやメールに対する嫌悪感を代弁してはいるものの、事の本質からは外れて
いる。
何故ならば、何も対面せずしてコミュニケーションを取る手段はメールやケー
タイだけではなく、普通の電話や手紙すらも程度の差こそあれ同じ代替的なコ
ミュニケーションツールに分類されるからだ。


 あと、十年先、二十年先に今以上に携帯電話やメールが普及した頃、これら
を指して人の心が伝わらない冷たいコミュニケーションだ、と主張することは、
帰郷の無沙汰を詫びる息子が故郷の母親にかける安否の電話や年賀状を冷たい
ものであると断ずるのと同じくらい説得力を失うのではないだろうか。


 嫌悪感を代弁してはいても本質からは外れている、とおいらが感じたのはこ
の為だ。では何故彼らが嫌悪感を抱くに至ったのか、といえば、これらが自分
達にとって、少なくとも自分達が子供だった頃には全く馴染みのなかったメデ
ィアだったからに他ならないとおいらは感じる。

 人は本質的に未知なるものに不安や嫌悪感を抱く、嫌悪感はそのまま不快感
となるが常識人である人々は、その嫌悪感を正当なものにすべく理性は嫌悪感
を何とか「理屈」に変換しようと苦心する。
そしてその「正当な理屈」の詰め合わせパックこそが「ゲーム脳の恐怖」とい
う本だったのではないだろうか。




 「最近ゲームはつまらない、か?という問題」などというタイトルで書き始
めたのに、延々と本題とは関係ない話を続けてしまったが、ここ最近、おいら
と同じ年代のゲーマーの口からは「最近のゲームはつまらない」という声をよ
く耳にするようになった。
ゲーム会社やゲームそのものが巨大化したことで、ゲームという商品が失敗を
許されない一大プロジェクトとなってしまい、露骨に「売れそうな要素」を組
み合わせているだけで、ゲームが本来持っていた冒険心や予想外を楽しさが最
近のゲームからは感じられない、という意見だ。


 おいらも概ねその意見には賛成で、いつかどこかでやったようなゲームの焼
き直しを、見てくれだけ綺麗して繰り返しているだけではないのか、と思うこ
とも少なくない。
ここ数年のどんなゲームタイトルであれ、小学生の頃、発売日を指折り数えて
期待に胸を膨らませ、寝るのも忘れてゲームに没頭したたあの頃ほどの感動を
味わうことはできなかった。


 あの頃のゲームにはおもちゃ箱をひっくり返したような奇想天外な驚きが詰
っていたが、最近のゲームは買う前から八割方内容の予想がついてしまうよう
なものばかりではないか。

 そんな風に思う反面、生まれついてのひねくれ者のおいらは、そんな自分の
考えに対する反論すらもでっち上げてしまう。

「本当にそうなのだろうか。仮に今のゲームの中にも、当時のゲームのような
冒険心に溢れた意欲的な作品があったとして、それをプレイするおいらの方は
少年時代に没頭したほどの情熱をそのゲームに傾けることが出来るのだろうか?」


 もし、そう問われたとしたら、おいらは力強く頷くことができるだろうか。
最近のゲームをつまらないと感じる理由、ゲームそのものに冒険心がない、だ
とか、型にはまっているから、というのは、断片的には当たっているかもしれ
ないが、「だから、最近のゲームがつまらない」と感じる本質的な理由はもっ
と別にありはしないだろうか。


 おいらはその本質的な理由は、自分自身にあるのではないか、と思う。
変な言い方になるが、現実問題として自分自身、あの頃ほどにはゲームには没
頭しなくなった、それは言い換えればあの頃ほどゲームを必要としていない、
ということでもある。
そして、それが本質的の理由なのかもしれない、と最近になって思うようにな
ったのだ。
ただ、興味の方がそう感じていても、理性はまだその事実に気付いていない。
だから「最近のゲームをつまらないと感じる」理由を自分自身にではなく、
「最近のゲームに求めている」のではないだろうか。

 理性はゲームに夢中になれない理由を探す為に、自分が過去に夢中になった
「あの頃のゲーム」と、現在自分が夢中になることのできない「最近のゲーム」
を比べて、あの頃のゲームにはあって今のゲームにはないものを分析し絞り込
む。
そこで「こんな風に変わってしまったから今のゲームはつまらない」という理
屈を作り上げ、自分を納得させているのかもしれない。


 おいらがこんなことを考えるようになったのは、冒頭に書いた学生時代の
友人がきっかけである。
この世の中にこれほど楽しいことはない!という表情で、ネットゲーム世界で
の出来事や、オンラインゲームの素晴らしさを語る彼女に対して、言葉の上で
は「でも、人相手って面倒くさいし、プライベートでまでゲームのこと気にし
なきゃなんないのはやだよ」と手当たり次第に反論意見をぶつけてはみたもの
の、別れ際に駅の改札に消えていく彼女の後姿をぼんやり見つめながら、おい
らはこんなことを考えていた。


 もし・・・あの日・・・。
この世の中でゲームといえば、アクションとシューティングとブロック崩しし
か知らなかった小学生だった頃、生まれてはじめて近所の電気屋のパソコンフ
ロアで、「信長の野望」や「ポートピア連続殺人事件」といった未知のジャン
ルのゲームのパッケージを目にして、その内容を心をときめかせながら想像す
るだけで何日も楽しむことができたあの日に。

 この世の中にはオンラインゲームというものがあって、そこではコンピュー
タではない、実在のたくさんの人々と会話をしながら冒険を楽しむことが出来
るゲームがあるんだ、ということを知ったとしたら、きっとおいらは、そのゲ
ームを楽しむことのできる環境を何としてでも手に入れて、毎日のようにその
ゲーム世界で冒険に興じたんだろうな・・・、そんな風に思った時、ふと彼女
の背中が羨ましく、そして何故か懐かしく見えたのだった。



AXL 2004

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