レトロゲームレビュー/名作、クソゲー等ファミコン時代から網羅

夕闇通り探検隊

Media :PlayStation
Maker :SPIKE/YURA
種 別:アドベンチャーゲーム
発売日:1999年


 例によってワタクシゴトで恐縮なのだが、おいらは怪談の類が大好きである。
子供の頃から現在に至るまでこの趣向は変わっていないが、反面、幽霊だとか
心霊現象だとかという類を全く信じていないおヒトでもある。
このひねくれた嗜好は今までにも何度書いてきたことだが、最近になって、で
はナゼ自分は怪談が好きなのだろう?と考えるようになった。

 幽霊の類をすべて「気のせい」というヒトコトで片付けてしまう自分が、ナ
ゼわざわざ好き好んでこのテの話を聞きたがるのか。
自分なりの結論としては「怪談という創作手法」に惹かれるのではないか、と
いうところで落ち着いた。
心霊現象を信じていないおいらにとって、怪談の類は全て創作であるというこ
とになる。
しかし、この「創作」にはいくつかのルールが存在する。
それは最低限、心霊現象を扱っていること。
もうひとつは、その為に「過去を扱わざるを得ない」ということ。
怪談というのは、例えその舞台が現在であっても、主役たる幽霊は既に過去の
ヒトでなければならない、それが数年前だとしても数十年前だとしても、聞く
ものに恐怖とともに過ぎ去った過去を感じさせる、どこか懐かしい存在でもあ
る。

 また、はじめから創作という前提で発表されるものとは違い、「その話が真
実であるという嘘を聞く人に信じさせなければならない」という宿命。
そして、最後に正確な文書などではなく「聞き伝え」を媒体としている点だ。

 これははじめから怪談として意図的に創作されたものであれ、当の本人が「
自分は体験した」と本心から思っているものであれ同じで、心霊現象という本
来現実社会では受け入れられにくいものを、語る、伝えるという行為を通して
一時的にでも聞く者に真実と錯覚させなければならないという宿命を「怪談」
はもっているのだ。
故意に怪談を創作する者は、自分の創作をより完全なものに見せる為に。
自分が体験したと思っている人は、自分の中の真実が他人によって否定されな
い為に。

 その為に怪談を作るものは怪談という嘘が他人に暴かれないということに注
力せざるを得ず、この点がはじめからその必要のない他の創作活動とか大きく
異なる点となり、ひいてはそれが怪談話特有の「癖」を生み出すことになる。


 怪談の主人公はいうまでもなく心霊現象そのもの。
幽霊であったり、人魂であったり、怨念そのものだったりするが、逆に「心霊
現象だけ」では怪談は成立しない。
心霊現象は、その心霊現象に遭遇する人間がいてはじめて「非日常的なもの」
になり得るのだ。
脇役である人間と主役である幽霊の日常と非日常のギャップが大きければ大き
いほど効果的な恐怖を呼び起こすことができる。
その為、怪談をより恐ろしいものにするためには、心霊現象そのものが恐ろし
いことは勿論だが、バイプレイヤーたる人間にはなるべくおとなしくして貰う
必要が生じる。

 だから、怪談に登場する人間は、多くの場合ステレオタイプにならざるを得
ない。非日常的な存在たるべき幽霊よりも込み入った事情と不可思議な趣味嗜
好を有する「被害者」が登場してしまったら、怪談話は怖くなくなってしまう
し、何よりも万人受けがしなくなってしまう。
怪談は、相手が誰であれ、とりあえず「信じて貰うこと」を優先せざるを得な
い為、極力無駄な部分、つまり本編とは関係ない脇役の設定は極端に走らず、
没個性的ながらも分かりやすい性格に流れる傾向がある。
また、怪談や都市伝説が聞き伝えを媒体とするところから、本筋以外の点は、
どうしても省略されがちになり、もし脇役に複雑な設定をつけたところでまる
で石が転がるように角が取れ丸くならざるを得ない。

 サラリーマンはサラリーマン、学生は学生、たとえ周囲に変わった人だ、と
いわれているような人まで、怪談に登場する人間はほとんどの場合、聞く者に
予備知識を要求しない。
誰もが思い描くサラリーマンであり、学生であり、いつかどこかでみかけた「
変わった人」に過ぎないのだ。

 反面、そんな没個性的な脇役たちのサイドストーリーがわざわざ語られるの
も怪談の特徴のひとつで、とりあえず、その脇役がどんな人で、どうして心霊
現象に遭遇したのか、という点くらいは押さえておかなければならない。
そこで語られる、「どこにでもいそうな、どこかの誰か」のちょっとした日常
などという一見退屈極まりないものを覗き見ることができるのは、怪談という
特殊な創作ゆえのことだとおいらは思う。

 そして、おいらが一番興味を持つのは、もしかしたら主役たる幽霊の存在で
はなく、脇役たるそんな彼らの存在そのもの、頭のどこかで、「もしかしたら
この人はこんな友人がいるのかもしれない」「家族はこんな感じかもしれない」
といった想像の余地の大きさなのかもしれないと思うようになったのだ。


 小説など、他の創作ものであれば、脇役といえど当然のように塗りつぶされ
てしまう最低限の設定欄さえも、ほぼ空欄のまま聞く者に提示される、怪談以
外の創作が仮に絵本だとするならば、怪談は「ぬり絵」である、そこにどんな
色を塗るのも聞く人の自由なのだ。

 ゲーム的に言うなら、一般的な創作ものは最近流行りのストーリー主導型R
PGで、キャラクターの設定資料だけで何冊もの本になってしまうようなもの
だが、怪談の方は、システム主導のウィザードリィタイプといえるかもしれな
い、最低限の必要なこと以外はプレイヤーの想像力で好きに脚色できる楽しさ
がある。


 例によって前置きがびっくりするほど長くなってしまったが、今回紹介する
「夕闇通り探検隊」という作品は、まさにそんなひねくれたおいらの嗜好を十
分満足させてくれるゲームだったのだ。


 ゲームの目的は、「100日の間に44の噂を解決する」というもの。
主人公は、東京のベッドタウン、陽見市に住む三人の中学生で、優等生だが気
の弱い少年ナオ、思春期特有の感性のままに世界と対峙する同人系文学少女サ
ンゴ、純真無垢で天真爛漫という本来この年頃の女の子に世間が求める要素を
全て持っているが故に現実との軋轢を起こしてしまうクルミ。

 三人は、興味本位で「人面ガラス」を見てしまったことから、100日の呪いを
受け、100日以内に陽見市で囁かれる44の噂を解決しなくてはならなくなってし
まう。
ゲームは午前中の学校パートと午後の探検パート、プレイヤーが関与することが
出来ず、キャラクターの日常生活が描かれる夜の3つのパートに別れ、学校パー
トで噂の入手を、探検パートでその究明をし、夜をパートを見ることで一日が過
ぎるというシステムを取っている。

 学校、探索のそれぞれのパートではプレイヤーが操作するキャラクターを一人
選ぶことができ、選んだキャラクターによって入手できる噂や、解決できる噂に
違いが出てくる。
噂を入手するだけなら、特定の日にその噂を入手することのできるキャラクター
を使えば、一日で入手できるが、探索の方は、数日に渡って探索せざるを得ない
ものが多く、またその場面場面で必要となるキャラクターが変わる為、それぞれ
のキャラクターの特性を理解して選ぶ必要がある。


 このゲームの興味深い点は、陽見市という街をまるごとゲーム中に再現してい
るところで、この街から出ることは出来ない代わりに、探索パートはこの街の中
であればいつでもどこにでも行くことができる。
画面は2Dで、実写を取り込んだものをCG処理しているらしく、立体感はないもの
の、ゲームから感じる生活感のリアルさは他のゲームの追随を許さないものがあ
る。
また、三人の主人公はいわゆる「ゲームの登場人物」からイメージされるステレ
オタイプな存在は一線を画し、微妙な心の機微までも感じさせる等身大の存在と
して描かれ、「陽見市」の生活感と相まって、現在主流となっているゲームの「
リアルさ」とは全く異質なリアルを感じさせてくれる。


 噂のバラエティも豊富で、超常現象、都市伝説から単なる勘違いに過ぎないも
の、噂を解決した後もいく通りも解釈が出来る奥の深いものまで揃っていて、勿
論それらをひとつづつクリアしていくことも楽しみなのだが、それと平行してナ
オ、サンゴ、クルミの日常の中の物語が展開していく。
こちらは主に夜のパート、つまりプレイヤーが関与することのできないところで
進んでいくのだが、実質的に「夕闇通り探検隊」の本編はこちらの方だとおいら
は思っている。


 延々と冒頭に述べた通り、おいらにとっての「怪談」の魅力とは、怪談という
ストーリーが持つ自由度の高さ、聞く側が自身の経験と想像力によって脚色を施
すことの出来る点なのだが、それはそのままこのゲームにも当てはまる。
陽見市というゲームの舞台も、どこにでもありそうな場所であり、おいらの世代
の人間にとっては、三人の主人公をはじめとする陽見市の人々もそれぞれに中学
生時代の自分や当時の自分が出会った人々を投影させることの出来る存在なのだ。
それだけに「44の噂の探索」に名を借りて、陽見市で中学生になり、何を探し、
何をみつけることが出来るのかは、このゲームを体験したプレイヤーそれぞれで
異なってくる筈だ、そして、それこそがこのゲームの最大の醍醐味なのではない
だろうか。



AXL 2005

HOME