ホーム :


あとがき

前へ 次へ


 「卑弥呼」や彼女がいたという「邪馬台国」、その後の「倭の五王」、「聖徳太子」「白村江の戦い」「壬申の乱」などについて「教科書」に載っていることを全て「事実」「真実」と信じて疑わない人が大多数なのが現状です。しかし、日本の「古代史」はまだまだ史料も少なく、古代のことはそんなにたくさん判っているわけではありません。決定的なことが言えない中で、「学会」という学者集団が、あたかもこれが絶対と言わんばかりに「定説」を説き、それが一般に浸透しきっているというのは、奇妙な話です。
 「古代史学」は「文献史学」と「考古学」とで主要な部分が構成されていますが、いずれも「学」という名に反する「非合理的」「非科学的」「非論理的」な研究とその解釈が横行しています。「画期的」な解釈をしようとすると(あるいは実際にすると)周囲から「仲間はずれ」にされる。研究会に呼ばれないとか、論文の掲載を拒否されるなどのハラスメントが発生したりします。
 彼らは互いのグループの中だけで通じる「暗号」で意志を通わせているのが現状です。たとえば「大化前代」という用語があります。この用語は「大化の改新」の前の時代、という意味であり、「大化の改新」があった、という「無批判の前提」から発生している用語です。この用語が取り交わされるのは「仲間ですよ」という信号であり、「踏み絵」でもあります。
 「はじめに」でも述べたように、現代でも「天皇家一元論」という大前提から抜け出せない人がほとんどですが、それはこのように学会が提供する「定説」により「仕組まれた」ものであって、これは一種の「イデオロギー」になっているようです。古代の事と現代が微妙なねじれ具合で絡まっているように見えます。
 このような「絡まり」をほどき、真に学術的解析を古代の史料に施すと、「常識」とされることと衝突する事例が多数に上ることが判ります。これを正視し、合理的解釈を施し、新しい古代の世界を多くの人の眼前に提出することは、古代に興味を持ち、研究するものの端くれとしての「義務」であると考え、非力も顧みず「トライ」したわけです。
 もとより、知識不足、読解力不足は否めません。明らかな間違いを含め、疑問点多数あることと思われますが、これが現時点の私のベストです。
 これにより誰か一人でも、古代史の現状に新鮮な視点を持たれることを願っています。

James William Mccallister, Jr.

前へ 次へ
「倭国」から「日本国」へ(旧タイトル「倭の五王」から「日本国」へ)  〜 九州王朝を中核にして 〜 に戻る