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「改元」と「建元」

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 「続日本紀」大寶元年(七〇一)三月条には次の記事があります。

 「対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大寶元年と為す」

 ここには「建元」という用語が使用されています。「建元」とは文字通り「初めて」元号を使用するときに使用される用語です。このことから、少なくとも「続日本紀」の編纂者は「元号」のいちばん最初は「大寶(大宝)」であると認識していたことになります。

 中国の史書の例で考えると、「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など歴代王朝の交替は「禅譲」が行われたとされ、その場合「元号」は「改元」されたと書かれているのに対し、たとえば「唐初」に各諸国(特に江南地方)で起きた反乱の際に多くの「帝」が「僭称」され王朝が建てられたとされますが、そのような際には例外なく「建元」されたと書かれています。
 つまり、「天命」を受け新たに「王朝」を建てる場合には「元号」も併せて建てられるものと考えられるものであり、その延長で言うと、「続日本紀」における認識は「大宝」は「新王朝」の「元号」であり、この「新王朝」は「前王朝」からは「禅譲」ではなかったと言うこととなるでしょう。
 つまり、「続日本紀」の編纂者の認識では「新日本国」と「旧日本国」は連続しておらず、「新日本国」は(字義通り)新たに始められた王朝であると言う事になります。(短い時期並行していたと言うことも考えられます)

 ところで、「わが国」で最初に制定された「年号」は「大化」と一般には理解されていますが、実際には「書紀」では「改元」と書かれています。

「皇極四年(六四五)六月乙卯条」「『改』天豐財重日足姫天皇四年、爲大化元年。」

 ここでは「元号」を「建てた」とは書かれず「改めた」と書かれています。上に見るように「改元」と「建元」とは全く違う概念です。これはその「政権」の移動の形態が「禅譲」であったことを示すものであり、王朝の実質としては連続していたことが推察できます。
 「改元」というのはもちろん「それまでの年号を変更すること」を意味するものですが、もっといえば「大化」の前に別の王朝があり、そこから「禅譲」されたという可能性があることを間接的に証言していると思われます。
 そして、この考え方は鎌倉時代に成立したと考えられている「二中歴」の編纂者にも共通しています。
 「二中歴」では、第二帖最初にある「年代歴」冒頭に「継体」(元年は五一七年)から「大化」(元年は六九五年)までの三十一個の「九州年号」群が列記されており、年号群の末尾に次の文が記されています。

 「已上百八十四年々号丗一代〔虫食いによる欠字〕年号只有人傳言自大寶始立年号而巳」。

 この文章の意味は「欠字」部分があることもあり、諸説がありますが、「古賀氏」が言うように、「二中歴」の内容から考えてみても「以上百八十四年、年号三十一代、年号は記さず。只、人の伝えて言う有り『大寶(大宝)より始めて年号を立つのみ』」と読み下すべきものと考えられます。 つまり、年号は一八四年間三十一代にわたり使用継続してきたが、(事情があり)今はそれを記さない、しかし、「大寶(大宝)」から始まったと言うのは言い伝えに過ぎない(以前からあったのだ)と言っているのです。
 この「二中歴」の認識は「大宝」以前の王朝と「大宝」以降の王朝とは別であると言うことを消極的に証言しているように思われ、それは「続日本紀」の編纂者の認識とも微妙に響き合うものではないでしょうか。また、この感覚は「書紀」編纂者の感覚とも共通していると思われます。
 つまり、「持統朝廷」以前と「文武朝廷」以後とは「別」である、という意識、言い換えると自分たち「文武朝廷」以降の「日本国朝廷」は「新王朝」である、と言う意識があったために発生している書き方と考えられるものです。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/04/17)


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