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「二中歴」について

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 すでに見たように「古代年号」については異論があるわけですが、それが記載されている資料はかなりの多数に上りますが、中でも「二中歴」は現在「多元史論者」の多くが、もっとも「確からしい」とする資料であり、この中に出てくる「年号群」がもっとも原形を留めているらしいとされています。
 この「二中歴」は平安時代の「算博士」「三善為康」(西暦一〇四九〜一一三九年)という人が著したもので、「懐中歴」(十巻)と「掌中歴」(四巻)からなる「百科事典」のようなものです。
 この書は当時のインテリ階級の必携の書物でした。彼は西暦一一〇〇年に「正六位上」に叙されているようであり、この前後にこの「二中歴」の原型となるものが書かれたと思われますが、後の時代になり、この二つを併せて一つにしたものが鎌倉時代に成立し、「二中歴」と言う名称になったものです。(なお、この時の「編者」は不明なようです。)
 この「二中歴」の「年代歴」と言うところに「古代年号」が多数書かれた部分があり、各資料を照らし合わせた結果、ここに書かれた「年号群」が一番「信頼性」が高いと考えられるようになりました。これを「古田氏」他多元使観論者は「鶴峯茂伸」の古写本のタイトルにちなんで「九州年号」と呼んでいるわけです。

 この「二中歴」の資料としての信憑性値あるいは価値というものが云々される場合もありますが、「年号」だけではなく、他の分野についても資料として引用されている場合があります。
 たとえば、「将棋」についての記録が「二中歴」に載っています。これについては「将棋」の歴史についての著書・論文の重要な論証として引用されているようです。
 「木村義徳八段」(木村義雄十四世名人の長男)に「持ち駒使用の謎」という著書があります。この本は「将棋の伝来」と「改良」ついての年代論が主たるものですが、その中で、「二中歴」に触れている部分があり、「信頼できる資料」と述べています。
 著者である「木村八段」は「二中歴」について「編集者の主観的意図や利害関係もないもの」、という評価をしています。また多くの研究者も「平安期」という時期限定ではあるものの「資料」として問題なく使用しているものです。ただし、明治時代に「幸田露伴」が二中歴の中の「平安将棋」の項目について異議を唱えています。

(二中歴の該当部分の記事)
二中歴 第十三博棋歴「将棋 玉将は八方に自在を得る。金将は下二目に行けず。銀将は左右下に行けず。桂馬は前の角より一目を超える。香車は先方に任意に行く。歩兵は一方のみ他行せず。敵の三目に入れば皆金になる。敵玉が一将になればすなわち勝ちとなる。」

「露伴」は「将棋余談」という彼の著書で「古の二中歴より前田家蔵後醍醐天皇時代の写本に至るまで、その間実に二百年の悠久を経、転々書写の際、飛車を叙するの一句、角行を叙するの一句を脱落せるならん」としています。「露伴」は将棋好きで知られ、彼は将棋の起源の考証をする中で「二中歴」を研究し、その記述に疑問を呈しているのです。
 確かに、ここには、「飛車」もなければ「角」もありません。まして取った駒が再利用できるというわけでもありません。現代の将棋を見慣れ、指し慣れているとこの規定で将棋が指せるものが疑問や不安が起きるのもわかります。
 しかし、「奈良」「興福寺」から「一九九三年」(平成五年)に出土した駒が、同時に出土した木簡により「一〇五八年」(天喜六年)のものと確認されています。その後「太宰府」や酒田市の「出羽国府跡」からも同時期の駒が出土しており、十一世紀後半にはすでに駒の形、駒の名称などが「二中歴」に書かれた「平安将棋」と同一である事が確認されています。
 その後も(それ以前も)各地で将棋の駒の発見が相次いでいますが、「飛車」「角行」は未発見のままであり、このことも「平安将棋」には「飛車」も「角行」もない、という「二中歴」の記述の正しさを表しているようです。
 「一九七六年」に発見された「韓国」の「木浦」近くの「新安沖沈没船」からも将棋盤と将棋の駒とがセットで発見されていますがやはり「飛車」「角行」は発見されていません。
 このように「二中歴」の記述についての正確さには信頼性が高い事が実証されているのです。
 この後も「平安大将棋」に関する記述など、「二中歴」が平安時代の初めという時代における貴重な資料としての評価は非常に高いものとなっています。


(この項の作成日 2010/07/16、最終更新 2014/08/14)


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