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フィケルラという名称はこの様式の陶器が初めて出土したロードスの古代カミロスの現在の名前から名付けられた。しかしその製作地は発掘調査と陶土分析の結果からミレトスであることがほぼ確実となっている[1]。
陶土はやはりミレトスで作られたイオニア南部のWild
Goatのものと同じで、刻線もほとんど用いられなかったが、Wild
Goatと異なり、動物の頭部が黒く塗られている。紫の彩色は初期には見られたものの減少し、白は目やロゼッタ文などの一部にしか用いられなかった。
陶器の器形はWild Goatとは大きく異なり、また技術的にも低く、しばしば歪んだものが見られる。最も多く生産されたのがアンフォラで、横幅が広く、把手は三本の粘土ひもを並べて作られた。この形式はイオニアにはあまり見られなかったものだが、アイオリス地方では作られていた。フィケルラ式の後期になるとアンフォリスコスも流行し、初めはややずんぐりした感じだったが、次第に細長くなっていった。このほかにもオイノコエやアッティカのリトルマスターを真似たカップ、球形のアリュバロスも作られた。
装飾は複雑な構成になることもあったが、それを構成する要素はあまり多くない。動物はWild
Goatのものとほとんど変わらないが、人物像が多くなった。頚部の装飾は初期にはWild
Goatに見られた連環文が用いられていたが、次第にメアンダーと方形の文様が好まれるようになった。またフィケルラ式の画家の発明と思われる十字のメアンダー文も用いられた。胴部に描かれる文様としては渦巻文、三日月文、ロータス文があり、渦巻文は胴部の広い部分に描かれることが多く、人物や動物の代わりにメインの画面を占めることもあった。三日月文は胴部の下半にフリーズ状に描かれることが多く、二段以上に分かれるときはそれぞれ異なる方向を向いている。ロータスの花とつぼみの文様はWild
Goatよりも更に簡略化されている。
フィケルラ式の発明者はアルテンブルクの画家(Altenburg
Painter)と呼ばれ、これに続くグループSのオイノコエは全体を鳥に見立てて翼の流れに沿って装飾している。彼らが依然としてWild
Goatの要素を残しているのに対し、グループRなどは完全に充填文を廃し、その後継のグループPは胴部の画面をパルメットと渦巻のみで構成した。走る男の画家(Running
Man Painter)の名前の由来ともなったアンフォラ[2]はフィケルラ式の代表作の一つで、歪んだ器形や不揃いな装飾など決して上手ではないが、空間の使い方や男の力強さがこの作品に魅力を与えている。彼の作品の多くやパルメットと渦巻をメインに描いたグループOのアンフォラは胴部の下半分の装飾を放棄している。
アンフォラがほとんどだった器形にアンフォリスコスが加えられるようになり、そのほとんどは簡素な装飾だったが、走るサテュロスの画家(Running
Satyrs Painter)は別格で、アッティカ式に学んだと思われるその描写の正確さは走る男の画家と好対照をなしている。
フィケルラ式の出土地はWild Goatの頃とあまり変わっていない。アイギナを除けばギリシア本土やイタリアからはほとんど出土しない一方、ナウクラティスなどからは大量に発見されている。全体的に後期になるとあまり遠方には輸出されなくなるが、これはアッティカ式の優勢の影響だろう。年代について、その開始と終焉を年代づける資料に乏しいが、560年頃に始まり、ミレトスがペルシアに破壊された494年かそれ以前に消滅したと考えられる。
[1] |
フィケルラ式の基礎研究は、Cook,
R. M., "Fikellura Pottery",
BSA 34 (1933/4) pp.1-98、Schaus,
G. P., "Two Fikellura Vase
Painters" BSA 81
(1986) pp.251-295, Cook, R.
M., "The wild goat and
Fikellura styles: some speculations",
OJA 11, pp.255-266を参照。 |
[2] |
London
British Museum 1864.10-7.156,
from Fikellura, H.34 |
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