源氏ファンの助け合い(^^)
源氏物語質問箱A5 「げんじろーど」に集う 素晴らしい仲間が回答してくれました。 ありがとうございますm(__)m |
さんの疑問 | 源氏の君と、葵の上の最後の会話を教えて下さい。お願いします! |
・えっと、確か葵の上の「いってやっしゃいませ」が最後だったと思います。私の読んだものではそうなっていました。[舞鶴]
・「あさきゆめみし」では舞鶴さまのおっしゃるように「いってらっしゃいませ」でした。一応原文では源氏が院の呼び出しがあるのを青いのために早くひきあ
げよう、と言って、「(病気看病のため部屋を移っていたので)元の部屋にお戻りになっていただいて、そこでお逢いしましょう」と言ったのが最後だったと思
います。少々長台詞なのではしょりましたが…[はや]
さんの疑問 | 帝の側に侍るかもしれないということを除けば、尚侍の職務は、深窓の姫ができるような名誉職的なものだったのでしょうか? 在宅でもできるということなので、例えば下の役職の者が作った書類にサインをするだけのように。 |
・自力で昇進した人はともかく行事の時に尚侍として出席する、とか何かの折に名前を出すといった程度だと思いますよ。仕事にしても、その仕事を振り分けた
り采配するのは実際は彼女らの身内なのですから。中宮や皇后が名誉を与えられて、行事ごとに顔を出すのと同じように。玉鬘は一度御所に出た後は出仕しな
かったともありますし。[はや]
・ありがとうございます。やっぱりそんな感じですよね。[ロバサン]
・この時代の尚侍は二人いました。実際に采配をふるうのはおばさん尚侍で、もう一人は帝の愛人のような人でした。玉鬘はキャリアウーマンとして出仕していますが、彼女の二の姫は、愛人という形で尚侍になっています。[舞鶴]
・舞鶴さんのおっしゃるとおり、尚侍の定員は2名です。必ず二名常駐というわけでもなかったようですが、一人が妃待遇であってもこの場合、何も問題があり
ません。あるいは尚侍の下には典侍、掌侍といった次官がいます。彼女たちは尚侍とは違い、完全に役職に従事する女官です。[はや]
・掌侍の筆頭は長橋の局とも呼ばれ、特に帝の用向きを伺うため清涼殿近くに控えています。それ以外にも、宣旨など専門の女官がいました。[はや]
・ですので、宮家、大臣、大納言、普通に入内しても女御の宣旨が下る家格の姫であればほぼ名誉職。下積みから昇進を重ねた人は実際の仕事の把握もできていたでしょうし。目安としてこの大体の分け方でいいでしょうか?[はや]
さんの疑問 | またまた秋好中宮についての質問なんですが冷泉帝は秋好中宮を母親的な 愛情でしかなかったんでしょうか。秋好中宮って冷泉帝に可愛い人っていうイメージを持たせた人なのにそんな母親的な愛情を持っていたかと思うと変に思うの ですが・・、それと弘き殿の女御の方が寵愛が深かったらしいけど秋好中宮には源氏への孝行心だけで女性という面では愛してなくて弘き殿の方を愛していたん でしょうか。 |
・小6さんはどの場面を見た上で「母親的な愛情」と判断とされたのでしょうか?ちょっとそのあたりが明確にならないとお答えいたしかねる部分もあります。良かったら教えていただけますか?(^^)[はや]
・あと、この時代の女御にたいする「ご寵愛深い〜」というのは半ば慣例句のような部分もあって…。弘徽殿女御を寵愛していたのは紛れもない事実ですが、帝
が妃を愛する、といのはそこにはただの性愛、情愛以外に、後見に対する配慮、妃自身への身分に対する敬意があるのを忘れてはいけないのです。[はや]
・王朝文学でとかく恋愛面を重視されがちですが、きっても切れないこの含みの部分を承知していただけると少し分かりやすくならないでしょうか?[はや]
・はやさんお答えいただきありがとうございました。たぶん私の解釈がおかしかったんだとおもいますが、冷泉帝が秋好中宮を「絵合」で姉的な存在で見ていた
ように思ったんです。はやさんの言うとおり後見とかへの配慮もあったんでしょうね。一条天皇が彰子を立后させたのもそうだって言うわれてるし・・。冷泉帝
だって成長するにつれて秋好を本当に愛したかもしれないし、弘徽殿女御にしてもその父致仕大臣への配慮があったかもしれないですしね。けど、当時の帝って
本当に大変ですね・・・・[小6]
・一条天皇の妃は定子にしても彰子にしてもその入内、立后には政治的配慮が多分にあります。一条帝の賢帝としての素質は、その配慮が上手かったこと、どの妃も粗末に扱わなかったことだと思っています。冷泉帝にそれは通じるものがあると思いますよ。[はや]
・女性として愛されていなかったという事はなかったと思います。[よし]
さんの疑問 | 夕霧と雲居の雁の間には何人子供ができたんでしょうか…? |
・7人説と8人説の両方があります。どちらかと言えば前者が支持されています。ただし、太郎(長男)以外の子は出生順や母親(雲居雁か藤典侍)については散逸しており特定が困難です。[たー坊]
・太郎は雲居雁、六の君は藤典侍が母親です。他は特定が困難です。[たー坊]
・谷崎潤一郎氏の源氏資料からの引用です。雲居雁との子どもは男:太郎君、三郎君、四郎君、六郎君。女:東宮女御(大君)、二宮北の方(中君)、四の君、五の君です。[はや]
・藤典侍との子どもは男:次郎君、五郎君。女:三の君、匂宮北の方(六の君)となっていました。[はや]
・宇治ではこの他に末の子で、七郎君の名が登場しますが、この人の母親については雲居雁なのか藤典侍なのかは不明です。[はや]
・はや様のご意見については、夕霧巻最後の本文に次のことが書かれています。 『この御腹(雲居の雁)には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四
の君、五の君とおはす。内侍(藤典侍)は、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君とぞおはしける。すべて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、
とりどりに生ひ出でたまひける。』[まぽりん]
・以上の本文は「渋谷栄一〜源氏物語の世界〜」(http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/)から引用しました。[まぽりん]
・こんなに沢山お答えをくださってありがとうございます!!名前がこれまたノーマルな、、、[葵の上]
さんの疑問 | この時代大変新枕の年齢が早いのに驚きました。。では、13歳くらいで妊娠などというコトもあったのでしょうか?! |
・源氏物語では、東宮妃となった明石の女御が11歳で妊娠し、12歳で出産しています。その時に生まれた子供は確か、後の今上帝だったかな?[まぽりん]
・見方や考え方によるのですが、当時の女性の平均婚姻年齢は11歳から30歳代(女性の婚姻適格年齢は14歳から16〜18歳。上流貴族の娘などは割と早目)でしたので今は問題ありかも知れませんが当時は普通だったのかも知れません。[たー坊]
・まぽりん様:明石の女御(中宮・姫君)は今上帝の中宮です。第一子出産時の地位は春(東)宮(以降の子出産時の地位は不明)でした。[たー坊]
・まぽりん様: 明石の女御(中宮・姫君)は今上帝の中宮です。第一子誕生時の地位は春(東)宮(以降の子誕生時の地位は不明)でした。[たー坊(訂正)]
・平安時代の一応の法律としては正式な結婚が可能とされていた年齢は13歳だったと思います。[はや]
・ただ、時代が下るとあってないような法律だったので例外が慣例化されてきたのでは?[はや]
・源氏物語に限らず、古典作品を読むと、女性の結婚年齢出産年齢が今では信じられないくらい若いものがありますから、きっと書かれた当時はそのようなこと
が実際あったのでは、と思います。(ロミオとジュリエットでは、13歳のジュリエットの結婚について「この娘より若く母になったものもいる」なんて言って
ますから)[はや]
・たー坊さま、間違いを指摘いただいてありがとうございます。確かに宇治十帖ではまだ帝になっていませんでしたね。うっかりしておりました(^_^;)[まぽりん]
さんの疑問 | 秋好中宮って結局冷泉帝を愛してたんでしょうか。 |
・帝の後宮に入った女性が全て心から帝を愛していたでしょうか?激しく恋慕う、といった感情だけを愛と定義しますか?全ては物語を読み解いて答えを探るこ
としか出来ません。秋好中宮は、前半はおっとりと年よりも若い感性や愛らしさ、文化教養で冷泉帝の心を引き寄せました。中宮となってからはその位にふさわ
しい風格をもって後宮の中心に存在しました。冷泉帝退位の後は院の御所にともに下り、院とともに薫の後見にあたりました。これらの事実から、冷えた夫婦
だったと思うか、落ち着いた愛情を持つ夫婦だったと思うかは小6さんの解釈次第です。[はや]
さんの疑問 | なぜ光源氏は嫌がる若紫に無理やり新枕をかわしたのでしょうか?もっとまってあげてもいいんじゃなかったのでは・・・。 |
・光源氏は我慢できなかったようです。あさきゆめみしに光源氏が「あなたが花開くのを待つのがつらいんだ・・・もう・・・待ちたくない!」と言う台詞があります。[京]
・若紫の年齢での結婚は当時はそんなに奇異ではなかったことがあります。夜這い、強姦などは当時の男性の求愛行動としては当然と見られていた節もありますし。実際のところ男性側の言い分は分かりかねる、というところでしょうか?[はや]
・そりゃ 憧れの人の姪だもの まちきれないゎ[(●´ω`)]
さんの疑問 | 夕顔の住居、あるいはそれを取り巻く環境はどのようなところだったのでしょうか?また、そこに住む人々はどんな階級の人々だったのでしょうか?また、そのような場所について源氏はどう感じていたのでしょうか?皆さんの意見を教えてください。 |
・高校2年生さんの質問についての事柄はすべて夕顔の巻に詳しい描写がのっております。いろいろな方が現代の私たちに分かりやすいように書かれた良い訳本が何種類もございますので、ご自身で一度お読みになられることをおすすめいたします。[はや]
さんの疑問 | 花散里と源氏の関係は? |
・花散里は器量は悪かったものの、気立てがよく優しい性格だったため、源氏にとって「癒し」の存在でした。また、源氏は息子・夕霧の世話を任せるなど、花散里のことを大変信頼していたようです。[みぃ]
・花散里は桐壺帝の麗景殿女御の妹になります。その関係もあって、源氏とは内裏にいる時に出会ったようです。性格や後の関係はみぃさんが書いているものと同じです。源氏にとっては、最後は良き親友のような間柄になっていたと思われます。[朝月]
・まぁ 仲良し♪仲良し♪見たいな感じじゃないですかねぇ[(●´ω`)]
さんの疑問 | 若紫と紫の上は同一人物ですか? |
・そうです。若紫が成人したときにむらさきの上になったんだと思います。[京]
・紫の上が幼い頃、北山でその姿をみた光の君が「紫のゆかり(藤壺の血筋につながる)」と歌に詠んだことに由来します。やがて、源氏の妻となり、その立場
の重きが内外に浸透することで「対の上」などと呼ばれるようになりました。「紫の上」とよばれたのは物語を読んだ人の間での通称で、時代がくだり、様々な
文学者が翻訳、解釈を試みるうちに、その作中でも「紫の上」の呼び名が固定しました。ですので、原文中には「紫の上」と呼ばれることはないのです。私たち
が物語を読む上で定着してしまった呼び名、とお考えください。[はや]
・「紫の上」という呼称ははやさんのご説明の通り、和歌に由来します。ですが、「紫の上」という呼び名は原文中にもありますよ。例えば、御法巻の冒頭文
に、「紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後・・・」とあります。このことから、作者も紫の上を「紫の上」という呼称にしたことが見受けられると思い
ます。[まぽりん]
・あたりまえぇぇぇぇ♪[(●´ω`)]
さんの疑問 | 紫の上ってなんで子供が生馬れなかったんでしょう。 |
・それは作者の意図した所なので、何とも言えませんが、物語中では夢占いから源氏の子供は三人と決まっていました。最初の子供(冷泉帝)を産んだのが藤壺
の宮、次の子供(夕霧)を産んだのが葵の上、最後の三人目(明石の中宮)を産んだのが明石の君です。明石の中宮が産まれた時点で、紫の上が子供を生む余地
はなくなってしまったと言えます。[朝月]
・生まれなかったことによって、(これは逃げということになるかもしれませんが)、後々紫の上は出家を決心したことにもつながるかと思います。子供がいれ
ば、明石の君のように女より母としての道を選んで、女三の宮降嫁のことで深く思い悩むこともなかったでしょう。子供の育児教育に専念すればいいので源氏の
ことなんか無視できますし(笑) また、紫の上と女三の宮は少し似たような条件で源氏と結婚していますが、若い女三の宮には源氏の子供が生まれ(紫の上は
そう思ってる)出家も許されたのに、1番愛されているはずの自分には子供が生まれず出家も許されなかった。だから、余計読者の同情心を買っているのかな、
とも思います。紫式部はそのあたりを計算したのかもしれませんね。[まぽりん]
・子どもを生み、母親としての独立したキャラクターとしての人格が出来た場合、源氏物語の軸の一つである、「永遠に求め続ける理想の女性像」という神秘性を欠く要素になります。[はや]
・またまぽりんさんの仰るように、子どもがいればそれは救いになったでしょうが、明石中宮を養女として引き取り養育する、その複雑な心境。そして女三宮降嫁による若菜以降の紫の上の煩悶。これらがなければ物語にあれほどの深みは出なかったのではないでしょうか?[はや]
・ありがとうございました[京]
さんの疑問 | 六条御息所の父って誰だったんですか。資料はあるかもしれないけど1分でも早く知りたいです。ちょっと理由があってすごい気になります... |
・大臣であったのではないか、ということは分かっていますがそれ以上の資料はあまりないと思われます。物語にも登場しておりませんので。[はや]
・葵上の父との勢力争いで負けた名門貴族だったそうですよ%8Pr[華奈]
・はやさんのおっしゃるように、六条御息所の父親が大臣だったのではないかということは、東宮妃という身分などからわかっていますが実際どのような人物だったのかなどは書かれていないのでわかっていません。[朝月]
・お答えありがとうございます。「夕顔」巻読んで名前がなかったのも、読みおとしじゃなかったんですね。六条御息所と葵の関係ってすごく気になるので、少しでも分かってよかったです。ついでにって言うのもおかしいですが、六畳御息所と葵って仲はどうだったんですか。[秋子飲む中宮]
・原文では華奈さんのおっしゃっている左大臣と六条御息所の父大臣の政争はありません(おそらくは数ある源氏の訳本にも)。二人の関係は正妻と愛人という立場になるのですが、お互いにプライドが高いのでそれを気にしている素振りは見せないようにしています。[はや]
・六条御息所を源氏が並の愛人扱いしていたため、増徴した左大臣けの家来によって葵祭りの車騒ぎが起こるわけですが、それをとめられなかった葵の力量には主人としての力に辛い点をつけざるを得ませんし、そういった従者への教育については六条御息所に軍配があがるでしょう。[はや]
・文化的教養については冷たい夫婦仲である点を差し引いても、源氏はどちらかといえば御息所にその種の魅力は感じていたようです。[はや]
さんの疑問 | 源氏は夕顔をどのような女性とみてたの? |
・下記のhaaさんの質問に対するコメントを参考になさればよろしいかと思われます。[はや]
・この質問に限らず、過去に似たような質問をしている場合が多数あるので書き込みの前に過去の履歴をみてみるとよろしいかと。[はや]
さんの疑問 | 源氏は夕顔との出会いによって、女性観はどんな風に変わったのですか? |
・基本的には変らなかった、と考えてよいと思います。そこで女性を大事にしよう、などと殊勝に考えて実際にそうなったら若紫誘拐も藤壺を襲うなどもありえないはずですから。[はや]
さんの疑問 | 失踪後の浮舟は、御院で僧都に発見されました。御院は宇治川の近くにあるのでしょうか、それとも浮舟は入水したと見せる狂言自殺を演じたのでしょうか。 |
・覚悟の入水自殺ではなく、ストレスから夢遊病状態で川上まで出歩いたというのが最近の研究者の見解のようです。狂言はありえません。[はや]
・はやさん、ご回答有難うございます。素人の勘繰りで、右近と僧都の母尼とが連携して、浮舟隠蔽策を講じたかと妄想しました。[明石の姫]
・とある男の物の怪にとりつかれてて入水したと聞きまし・Pr[華奈]
・華奈さん、ご回答有難うございます。宇治川の畔を彷徨って、入水しそうになったとき、とある男(匂宮)に抱きとめられたとも聞きました。本当はどうなん
でしょうか。右近が浮舟の葬式を急いだ事と妹尼が娘の夢を見たことの間に何か係わりがありそうに思いますが、如何でしょうか?[明石の姫]