源氏ファンの助け合い(^^)

源氏物語質問箱9

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m


疑問
さんの疑問
何を証拠に冷泉帝の実父は光源氏だといえるのですか。

・藤壺女御の懐妊時期が、ちょうど里下がりの時だったので、桐壺帝と関係がもてない時期だったからだと思います。[桐桃]
・ありがとうございました。[疑問]


雛姫
さんの疑問
桐壺帝と先帝(藤壺の中宮の父上)は、どのような関係なのですか?…兄弟とか?

・はっきりとした関係は明らかにされていません。兄弟であるとか従兄弟であるとかの説があるにはありますが…。[はや]
・過去の質問にも同じようなものがあったのでそちらも参考にされると良いかと思います。[はや]


ミミー
さんの疑問
何で「源氏」では弘徽殿に住むお妃はあまり良い人ではないように書かれているんですか。

・分かりませんが、弘徽殿&藤壺は、身分の高い、姫が住む局なため、どの御世でも、弘徽殿VS藤壺の中宮争いが、あったようです。源氏物語 の中でも、桐壺帝の後宮では、弘徽殿女御VS藤壺の宮、朱雀帝の後宮では、朧月夜(弘徽殿)VS藤壺女御(女三の宮の母)、冷泉帝の後宮では、弘徽殿女御 VS藤壺女院(秋好中宮の推薦者)、今上帝の後宮では、明石の中宮VS藤壺女御でした。どの時代も、弘徽殿VS藤壺の、身分の高い姫同士の、争い?が、 あったみたいです。[桔梗]
・ありがとうございました。でも、彰子の局は藤壺なのに、そのライバル定子の局は弘徽殿ではありませんよね。どうしてなんでしょうか。[ミミー]
・確か、弘徽殿には、別の御妃様が、いたような気がします。[桔梗]
・ありがとうございました。ちなみに定子の局は登花殿でしたよね。[ミミー]
・たしかに、弘徽殿には藤原公季の娘・藤原義子という女御がいたのですが、彼女が入内して弘徽殿を与えられたのは、定子の入内した6年後なんですよ ね・・・。なぜ定子は、弘徽殿が空いていたのにもかかわらず、梅壺(のちに登花殿に移りました。)を与えられたのでしょうかね・・・?[Miyabi]
・一説によれば、一時的にも弘徽殿にいたそうです。[一説]
・弘徽殿に住むお妃はあまり良い人でないように感じるのは、読み手がどの立場に感情を移入するかにもよると思います。どうしても読み手は源氏がわに意識を置きがちですが、一度視点を変えると一概に弘徽殿女御たちをあまり良い人ではないと言えなくなるのではないでしょうか?[はや]


夢浮橋
さんの疑問
薫は妻の今上女二宮を愛していたのですか。

・少しは愛していたようです。[ミミー]



さんの疑問
明石の御方は何歳の時に明石の中宮を生んだのですか?

・20歳の時です。ちなみに、光源氏はその時29歳でした。(14帖・澪標)[Miyabi]
・ありがとうございます。[霞]


えりか
さんの疑問
源氏は太政大臣になった時、摂政か関白を兼ねていたんですか。

・太政大臣になった時、冷泉帝の摂政役みたいなことを、兼ねていました。しかし、政治は、内大臣の頭の中将に、任せて、隠居のような暮らしをしていたそうです。[桔梗]



さんの疑問
夕霧の三人の夫人の中で、源氏物語が終わるまでに死んだ人はいるのでしょうか?

・いなかったと、思います。宇治十帖では、三人は、殆ど、出てきません。落葉の宮が、藤の典侍の娘の六の君を、育てているところが、少し、出てくるくらいです。雲居の雁と藤の典侍は、名前だけ出てきます。[桔梗]
・ありがとうございました。[松]


桔梗
さんの疑問
明石の中宮腹の、女一の宮。六条院の春の町を好んでいたようですが、どういう、運命を辿ったのでしょうか?

・波乱万丈な運命ではないです。一品の宮という高い身分で父母に大切にされ、薫はじめ男性の憧れの的になり、未婚を通しています。薫の女一の宮垣間見のエピソードは蜻蛉巻にあります。[えるるん]


早乙女
さんの疑問
近江の君は、引き取られたときには11、12歳といった幼い姫君ではなかったのですか?

・近江の君の年齢は不明なのでわかりません。[えるるん]
・えるるんさん、有難うございました…。[早乙女]
・↑お役に立てなくてすいません;ただ近江の君は頭の中将の三女という説が有力なため、引き取られた時点ではまだ子供だったという可能性は無きにしもあらずって感じですね。[えるるん]
・えるるんさん、2回も有難うございました。[早乙女]


えりか
さんの疑問
女三宮は柏木を愛してたのでしょうか。

・柏木に送った、「煙くらべ」の歌が書いてある文の解釈によって印象は変わってくるかな、と思います。あと柏木の死を聞いて三の宮は泣いてるんですよね。どちらにしろ「愛情」という域には達していないかな、と思ってます。[えるるん]
・えるるんさん、回答ありがとうございます。[えりか]


バガボンド
さんの疑問
桐壺帝の女一宮と女三宮は弘徽殿腹でしたよね。じゃあ、女二宮も弘徽殿腹だったんですか。

・よく分かりませんが、多分それで正しいと思います。[武蔵]


えりか
さんの疑問
大納言とか中納言の娘は女御として入内できるんですか。

・その大納言・中納言の父が大臣・皇族であったり、摂関家・皇族の流れをくむものだったら、女御にならます。(冷泉帝の、弘徽殿女御は、父が中納言だったときに、女御として入内しています。)[桔梗]
・桔梗さんの回答に少し補足:大納言以下の娘は更衣にしかなれないのですが、冷泉帝の弘徽殿女御は祖父・太政大臣の“養女”として入内しました。[澪]
・紅梅は大納言の時に娘の麗景殿女御を入内させてますよねー。権勢の強い家柄なら、必ずしも大臣以上じゃなくても良いんでしょうかね?基本的には内親王・女王か大臣の娘だということですが。[えるるん]
・現実の平安時代では、大臣家の娘でも必ず女御になれたというわけではないようです。それと同じように、大納言家でも女御の宣旨が下りる場合があったのかも知れませんね。[こうめ]


えりか
さんの疑問
八の宮の北の方って朱雀帝時代の大臣の姫君なんですか。

・北の方の父大臣については、具体的な記述がないので不明としか言いようがないと思います。もしかしたら右大臣?などと思いますが、これは私の根拠のない妄想ですので(汗)。[えるるん]
・橋本治さんの「窯編・源氏物語」では、左大臣と表記されていました。[澪]


あれ
さんの疑問
弘徽殿大后のモデルは村上天皇の皇后安子ですよね。安子の局も弘徽殿だったんですか。

・いいえ。安子は最初藤壺で婚儀を行い、襲芳舎や梨壺に住んだらしいです。弘徽殿には四条御息所と呼ばれた述子が住んでいました。[こうめ]
・ありがとうございました。[あれ]


誰だろう。
さんの疑問
中宮彰子の局は藤壺ですよね。じゃあ、一条天皇の弘徽殿のお妃って誰ですか。定子は登花殿にいたし。

・公季(当時は中納言)の娘の義子です。道隆が死んでから承香殿の女御に引き続き競うように後宮に入ったそうです。[こうめ]
・ありがとうございました。で、承香殿女御って誰ですか。[誰だろう]
・顕光(これも当時は中納言)の娘の元子です。どちらも「栄花物語」に書いてありましたので、詳しくはそちらを読んでもらった方がいいと思います。[こうめ]
・こうめ様、ご親切にありがとうございました。[誰だろう]


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