源氏ファンの助け合い(^^)

源氏物語質問箱5

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m

若紫
さんの疑問
冷泉帝には、子供がいるということがでてこなかったんですけど、どうやって次の帝を決めたんでしょうか?

・朱雀帝退位し、冷泉帝に王位を譲った時に冷泉帝の次の王位継承者が決まりました。朱雀院の息子です。ちなみに中宮は明石の姫君です。[たー坊]
・↑は資料によって若干異なるかもしれませんが・・・。[たー坊]
・朱雀帝が冷泉帝に譲位する際、朱雀帝の承香殿女御腹の第1皇子が次の東宮に決まりました。そして、冷泉帝が今上帝に譲位する際、冷泉帝に皇子がいれば次 の東宮にすることも可能でしたが、その時、冷泉帝に皇子はいなかったため、次の東宮は今上帝の明石の女御腹の第1皇子に決まりました。ちなみに、冷泉院は 譲位後、玉鬘の大君との間に皇子が生まれています。[Miyabi]


桔梗
さんの疑問
冷泉帝と、秋好中宮は10歳、歳が離れてましたよね!?二人の間には、肉体関係は、あったのでしょうか?(中宮は、帝の御子を生んでいないけど・・・。)

・歳があれなのでなかったとおもうんですがあったという人もいるんじゃないんですか?[若紫]
・いや、あったと思いますよ。だって現代だって10歳くらい離れてたって(以下自粛)。[えるるん]
・当時としては特別都市の離れた関係でもないので普通に肉体関係はあったと思いますよ。[はや]
・あったんじゃないでしょうか。冷泉帝は秋好中宮を気に入ってたんだし。今ほど年の差に厳密な時代じゃないですしね。[美凪]



さんの疑問
明石の中宮は、五十四帖最後まで、皇后にはならなかったんですか?

・「中宮=皇后」と同じ意味なんです。明石中宮は22・3才で秋好中宮から“中宮”位を譲り受けています。それ以後、秋好中宮は“冷泉院の后”と呼ばれます。[澪]
・一条帝の後宮において定子が皇后、彰子が中宮になっているのは、一つの位に二つの名称があるのを道長が利用して無理を通したようです。。どうしても彰子 を中宮位につけたかったのに、すでに定子が一条中宮になっていたものですから、「じゃあ定子を皇后にしちゃえば、少なくとも“中宮”の名前は空くじゃん」 みたいな感じ(←想像)で。そのため2后並立の状態になってしまい、「中宮と皇后は別の位」と誤解されやすくなってしまっています。[美凪]
・実際は皇后よりも中宮のほうが力がありますけれどね。。中宮彰子なんて、皇后定子の遺児をぶん取っちゃったじゃないですか;;まあ、それなりに愛情はあったようですが。[早乙女]
・ありがとうございました。[松]
・定子と彰子の力関係は、そのまま後ろ盾である親兄弟の政治的な力関係であって、皇后と中宮のものではない気がするんですが…。>早乙女さん[美凪]


桔梗
さんの疑問
右大臣は、朱雀帝が即位しても、右大臣のままで、左大臣・太政大臣にならなかったのでしょうか?

・どうやらなってないようです。ただ、朱雀帝在位中は最高権力者みたいな感じです。[たー坊]
・明石巻で「太政大臣うせたまひぬ。」とあるので、太政大臣になってますよ。[えるるん]
・源氏が都落ちする時、左大臣(葵の上の父)は大臣職を辞しました。ゆえに右大臣は太政大臣として朱雀帝の最高権力者として君臨していたようです。(明石の帖で死去まで)冷泉帝の御世の時に前左大臣が今度は太政大臣として帰り咲きます。[澪]


早乙女
さんの疑問
近江の君は、引き取られたときに何歳ぐらいだったのですか。また、弘徽殿等彼女の姉は、その時何歳ぐらいでしたか。

・近江の君が内大臣家に引き取られたとき、弘徽殿女御は19歳、雲居の雁は17歳でしたが、近江の君の年齢については記されていないと思います。[Miyabi]
・近江の君は三女というのが有力な説です。[たー坊]
・↑のは無かったことにしてください。 資料によって順番が異なります。最終的には不明です。ただ、玉鬘より下であることは確かです。[たー坊]
・ちなみに、玉鬘は近江の君が内大臣家に引き取られたとき、22歳でした。[Miyabi]
・Miyabiさん、たー坊さん、有難うございました。[早乙女]


桔梗
さんの疑問
源氏と藤壺、柏木と女三の宮の逢瀬に協力した、王命婦・小従徒って、密通が、発覚したら、どんな、罪になったのでしょうか?

・仕えている主人に暇を出されるくらいではないでしょうか?[はや]
・ただしそこかしこで秘事を喋られては困るのは主人ですので、あえて手元で飼い殺しにするのが効率的です。[はや]
・そのようにして使えた女房の代表としてなをあげられるのが夕顔付だった右近でしょう。[はや]


うさこ
さんの疑問
源氏と藤壷の密通、柏木と三宮の密通はもし、世間に知れ渡ったらどんな罰(流刑とか死刑?)になるのですか?それぞれ教えてください。

・藤壺と源氏の関係は、帝の妻を奪う行為ですので、謀反の疑いがかかります。死罪もありえたかもしれませんね(多分源氏の君ですから、流罪で留まっただろうけど)。柏木と女三宮の関係も、源氏は上皇と同じ地位にいる頃ですから、不敬罪は適応されると思います。[こうめ]
・平安時代、妻の浮気現場を現行犯で取り押さえたら、その相手を殺してもいいというルールがあったそうです。実際には外聞も悪いので、そんなにたくさん事件があったわけではないそうですけれど…[こうめ]
・たびたびすいません。上のように偉そうに述べましたが、実際のところ、私も詳しい文献を読んだわけでないので正しくないかもしれません、間違っていたら申し訳ございませんがどなたか訂正お願いします(汗)[こうめ]
・源氏と藤壺の場合は、発覚したら、大変なことになってましたが、桐壺帝は、最愛の源氏のことですので、ある程度のことは、許してしまうでしょう。(許し てしまった。)しかし、女三ノ宮と、柏木の場合は、柏木は、身分もそう、高くありませんし、源氏も怒っていましたから、結構、重罪にされるかもしれませ ん。[桔梗]
・源氏と朧月夜の密通が発覚した時のように、やはり流刑かと思います。柏木と女三の宮の場合は、源氏が表沙汰にしようとはしてないので、柏木には社会的破滅が予感させられますね。[えるるん]
・↑文の初頭に語弊がありました。源氏は「流刑」にはなってませんね(汗)。[えるるん]
・ご回答ありがとうございます。女の方は罰せられないのですか??[うさこ]
・左遷、降格処分などでうやむやにしてしまう場合が多かったようです。[はや]
・女は外聞なども悪く、謹慎処分もあったようです。[はや]


ゆい
さんの疑問
朱雀帝には、何人の皇子や内親王がいたんでしょうか?

・承香殿女御との間に今上帝(明石の中宮の夫)が生まれ、一条の御息所(更衣)との間に女にの宮が生まれました。藤壺の女御との間に女三ノ 宮が生まれていますし、他にも、どの女御更衣腹とは書いてありませんが、女一宮、女四宮が生まれています。ですから、一男四女ではないでしょうか。[こうめ]
・入力ミスがありました(汗) 一条の御息所との間に生まれたのは女二の宮です。にの宮ってビミョーすぎますね(滝汗)[こうめ]
・こうめ様、お答えありがとうございます。[ゆい]


ナナ
さんの疑問
以前から気になっていたのですが、「中将」とか「命婦」とか「少納言」とか、女房の呼び名って、どうやって決まるのですか?

・どうやら女房としての階級を表すものだそうです。上臈、小上臈、中臈、下臈の4つに大分でき、典侍以上が上臈、小上臈になり命婦が中臈に なっていたそうです。また父親の官位からのもあるそうです。例えば女房が「中将の君」であれば父親は中将であったことになります。以上の二つによるものだ そうです。[たー坊]
・引き続き、「浮舟と匂宮」の回答をさせてもらいました。ただ、満足していただけるかは難しいですが・・・。[たー坊(付記)]
・すいません。「浮舟と匂宮」の件ですが回答が難しくはっきりとした回答が出せにくいのです。秘密裏に事が進んでいたのが難しくする理由です。不手際があったことお詫び申し上げます。[たー坊]
・「命婦」は女官の中で五位以上の者のことを言います。「中将」や「少納言」は、その女房の近親男性(ほとんど父親。時々兄弟のものもあったかも)の官位 です。例として紫式部を挙げます。彼女の最初の女房名は「藤式部」ですが、これは「〈式部〉丞であった、〈藤〉原為時の娘」だからです。それが「紫式部」 になったのは、「紫の物語(源氏物語)」を書いていたからだとか。[美凪]
・お二人ともありがとうございます。た-坊様、浮舟と匂宮の件についてはありがとうございました。わざわざ調べていただいたようで、すいません。[ナナ]



さんの疑問
例えば、女三宮のモデルは中宮彰子ですよね。その他に、源氏物語内の姫君で、モデルがいる姫君って誰なのでしょうか。

・桐壺更衣は定子だとか、弘徽殿大后は詮子だとか…挙げたらきりがありません。[早乙女]
・早乙女様の仰るとおり、挙げたらキリがありません。私からの回答では玉鬘についてですが本名は「藤原瑠璃」といい、実在したそうです。ただ、彼女が玉鬘のモデルになったかは不明ですが・・・。[たー坊]
・光源氏様は、藤原道長・源 融とか、いろいろ、説がございます。[桔梗]
・たー坊さまのご回答で、玉鬘の本名が「藤原瑠璃」とおっしゃられておられますが、「瑠璃」というのが本名なのか、呼び名なのかは不明のようです。余談で すが、物語の中でちゃんとした本名がわかっているのは、光源氏の従者である惟光(本名・藤原惟光)と良清(本名・源良清)だけのようです。[Miyabi]
・朧月夜は和泉式部、空蝉は紫式部自身がモデルだという説もあります。[春菜]
・個人的には、女二宮=脩子内親王 軒端の荻=清少納言のような気がします。。[早乙女]
・ありがとうございました。[松]
・どの論文だったか忘れてしまったのですが、源典侍のモデルは紫式部の義姉(夫の兄嫁)である、との説を目にしたことがあります。[美凪]
・↑追加。紫式部と夫・宣孝との年齢差が相当ありますから、その兄嫁ともかなり離れていたでしょう。年齢的にはこの説は無理はあまりないと思います。[美凪]


さくら
さんの疑問
この頃、出家したらおもに何をしていたのですか?

・お経を読んでたのかもしれませんねぇ。[松]
・在家の場合、今まで自分が座所にしていた場所を仏様にお譲りし、自身は今まで庇やすのこで生活していたようです。水や供物をささげたりしながら。[美凪]
・法皇(出家した上皇)など特権階級出身で出家した人は完全に欲世に見切りはつけていなかったようです。花山法皇は愛人宅に自ら出向いていました。[たー坊]
・↑だから藤原伊周に殺されかけました。[たー坊]
・みなさんありがとうございました。[さくら]



さんの疑問
↓定子のお子様は全部で何人いらっしゃったのですか?お名前や、その人生についてよかったらどなたか教えてください。

・修子内親王・敦康親王・び子(…でいいんでしょうか、読み方。女へんに美です)内親王の3人です。定子の死後、彰子が引き取って母代(ははしろ)になった、…と記憶しています。[美凪]
・女へんに美に子とかいて、‘‘よしこ‘‘と読みます。よし子内親王です。すぐ下のガラシャさまの質問に対するはやさまの回答の通り、よし子内親王をお産みになったあと、すぐに定子が亡くなり、よし子内親王も8、9歳で亡くなってしまいました。[Miyabi]
・Miyabi様ありがとうございます。「びし」なのか、他の読み方なのかずっと迷っていたので…。[美凪]


ガラシャ
さんの疑問
一条天皇の第二皇女の事なんですけど、確か名前は女へんに美しいに子と書いてありましたが、この皇女は生まれてすぐに母定子に死に別れましたが、その後どんな人生を送ったのでしょうか。

・かわいそうなことに八歳くらいで亡くなりました。[はや]
・ありがとうございました。何かすごく悲しいです。[ガラシャ]
・最初は詮子に引き取られましたが、詮子が死んでしまったので兄姉と同居するようになった、と記憶しています。容姿が大変愛らしく(きっと母親に似たので しょうね)、病弱な感じだったそうです。。本当に可哀想に、1008年の5月(多分)に、数え年で9歳、満年齢だったら7歳6ヶ月ぐらいで病死してしまい ました…[早乙女]
・早乙女さんもありがとうございました。[ガラシャ]


さくら
さんの疑問
本などによって「六条御息所」が「六条の御息所」だったり、中には「ろくじょうのみやすんどころ」だったりと違うのはなぜですか?それに、「紫の上」が「紫上」と書いてあった本もありました。

・これは資料を作った作者の言い方や表記の違いによるものと考えられます。[たー坊]


明石
さんの疑問
樺桜ってなんですか?

・紫の上のイメージ・フラワーです。[たー坊]
・たー坊さんに付け加えさせていただきます。樺桜は桜の一種で、山桜や上溝桜の一種だそうです。当時の桜の中でも華やかな桜だったそうですね。ですから、夕霧も紫の上を樺桜にたとえたのでしょう。(「野分」の帖だ[こうめ]
・失礼しました。「野分の帖」だったと思いますと書こうとしたのです(汗)[こうめ]
・うろ覚えですが、樺桜は普通の桜より色が濃い・・・ようなことを読んだ覚えがあります。[えるるん]


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