源氏ファンの助け合い(^^)
源氏物語質問箱4

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m



さんの疑問
今上帝の次の息子は、誰と誰の息子ですか?それとも、源氏物語内では、記されていないんですか?

・明石の中宮との子です。長男(一の宮)〜三男(匂宮)となっています。源氏物語では次の春宮としての資格を有しています。[たー坊]
・上記の三人は明石の中宮腹の子です。[たー坊]
・今上帝には皇子が5人、皇女が2人います。一の宮(東宮)、二の宮、三の宮(匂宮)、五の宮、女一の宮は明石の中宮腹、四の宮は更衣腹、薫の正妻でもある女二の宮は藤壺(今上帝即位前は麗景殿)女御腹です。[Miyabi]
・Miyabi様の回答は「五の宮」まで書かれていたので調べてみると「五の宮」の記載があったり無かったりとまちまちでした。[たー坊]
・ありがとうございました。[松]


お篠
さんの疑問
桐壺帝の藤壺は冷泉帝の母、弘徽殿が朱雀帝の母。朱雀帝の藤壺は女三の宮の母、弘徽殿が朧月夜。今上帝の藤壺は女二の宮の母、弘徽殿が明石中宮。冷泉帝の弘徽殿は頭中将の娘ですが、それでは、冷泉帝の藤壺のお妃は誰でしょうか。

・うーん。よくわかりません。秋好中宮の局は梅壺だったし。たぶん冷泉帝の藤壺のお妃はいないんじゃないかな。[琴]
・冷泉帝に藤壺に入られた妃はいらっしゃらなかったのではないでしょうか?秋好中宮は梅壺、弘徽殿女御は弘徽殿、王女御は承香殿を与えられていましたし。 もしかしたら、藤壺の女院が内裏に参上した時に、桐壺帝在位中の自分の居所であった藤壺にお泊りになられていたのかも知れません。[Miyabi]
・皆さん、ありがとうございました。[お篠]
・確か、冷泉帝の御世では、藤壺はおられなかったと、思います。御后は、秋好中宮・弘徽殿女御・王女御・大君だけだったのでは、ないかと・・・。[桔梗]
・左大臣の娘が女御として、他にも更衣が二人いたようなので、使われていたかもしれません。[はや]
・桔梗さんとはやさんもありがとうございました。[お篠]


佐々木小次郎
さんの疑問
一体「女二の宮」って源氏物語内で何人いるんですか。

・えーっと、落葉の宮と、薫の妻と、後は冷泉帝と玉鬘大君の娘と、桐壺帝の皇女にもいるはずです。だって桐壺帝には女三の宮がいるんですから、そのすぐ上の姉の女二の宮もいなくちゃ困るわけです。[宮本武蔵]
・藤壺中宮の姉も入れてもよろしいのでは?[はや]
・皆さん、ありがとうございました。[佐々木小次郎]


こうめ
さんの疑問
初めまして。下の夕紀さんの質問に対してたー坊さんが「桐壺院と先帝は従兄弟もしくは又従兄弟といった感じとおっしゃっておいでですが、それが描写されている部分がどこかにあったら誰かお教えください。お願いします。

・下記の説明に不足があったのかもしれません。お詫びし、訂正します。実は先帝と桐壺帝との関係については不明なのです。資料を元に書かれ た系図・系譜などでは繋がらないのです。ただ、王位継承のことを考えると桐壺帝と先帝の関係は兄弟関係の場合もありますし、叔父と甥の関係などといろいろ 考えられるのです。[たー坊]
・そうですか。私も調べてみたのですが、「従兄弟もしくは又従兄弟」という描写は見つからなかったので、ほとほと困り果てていたところでした。御訂正わざわざありがとうございます。[こうめ]


宮本武蔵
さんの疑問
蛍宮の先妻って右大臣の「三の君」でしたっけ。「五の君」でしたっけ。ちなみに右大臣の六人の姫君のうちの「大君」が弘徽殿、「四の君」が頭中将の奥さん、「六の君」が朧月夜でしたね。

・確か蛍宮の先妻は右大臣の三の君だったと何かの本で読んだような・・・・。[佐々木小次郎]
・三の君で正しいです。[たー坊]
・ありがとうございました。すると、「中の君」と「五の君」はどうなったのですか。[宮本武蔵]
・「中の君」は、「花宴」時、すでにどなたかに嫁いでおいでだったはずですが、誰と描写はされていないようです。「五の君」もまた、その頃、まだ結婚なさってはいなかったものの、その後誰の許にと嫁がれたのかは書いてなかったと思います。[こうめ]
・皆さん、ありがとうございました。[宮本武蔵]


夕紀
さんの疑問
ずっと気になってたんですが、桐壺帝とその先帝の間に血の繋がりはあったんでしょうか?彼が寵愛した藤壺の女御は先帝の四の宮なんですよね?

・桐壺帝と先帝とは兄弟関係などはありません(一応、血の繋がりはあるが濃くは無い)。四の宮で正しいと思います。[たー坊]
・桐壺院と先帝の関係は従兄弟もしくは又従兄弟関係といった感じです。[たー坊]
・説明が適切では無いかと思いますが、物語を元にして系図・系譜を作ると桐壺帝と先帝とは繋がらないのです。ただ、王位継承を考えると兄弟関係であったり叔父と甥の関係などいろいろ考えられるのです。[たー坊]
・↑の文は文章自体が変なので訂正します。[たー坊]
・最初の回答文では適切ではなかったと思い訂正します。桐壺帝と先帝との関係を資料を元に系図・系譜を書くと繋がらないのです。そのため兄弟関係であった り叔父と甥の関係などといろいろ考えられるのです。ただ、王位継承があるので近い関係であったと思います。なお、最終的には不明です。お手数おかけしまし た。[たー坊]
・度々すいません。藤壺は先帝の女四の宮で間違いありません。[たー坊]
・わかりづらい質問でごめんなさい。疑問が解決してすっきりしました。たー坊さんありがとうございました。[夕紀]



さんの疑問
藤壺という人は、源氏物語内で、何人いるんですか?

・3人です(桐壺の藤壺、女三の宮の母[前記の異母姉妹]、薫の妻の母)。[たー坊]
・ありがとうございます。[松]


お通
さんの疑問
「乙女」の巻で夕霧12歳、雲居の雁14歳でしたよね。じゃあ、藤典侍は何歳でしたか。

・夕霧より1コ上の13歳じゃないかな。たぶん。[まつ]


さくら
さんの疑問
源氏は末摘花と肉体関係があったのですか?

・もちろんあります。末摘花巻を読んでいただくのが一番だと思いますが、最初末摘花と契ったとき、源氏は彼女の顔をちゃんと見てません。雪の朝末摘花の顔を見てビックリするわけですね(笑)。[えるるん]



さんの疑問
尚侍は、更衣の下の位なんですか?

・「尚侍」は女官(御所などで働く女性の職員)の位を表すもので現代調で言えば「女性侍従部 部長」みたいな感じです。更衣は帝の妻の位を 表すものなので分類上、異なります。よって回答できません。 ただ、尚侍は女官の最高位なので帝などの寵愛を受けているケースがあり、それが更衣より上で ある場合も否定できません。[たー坊]
・尚侍は、御匣殿と同じで、後宮のお仕事をします。更衣とは、役目が異なりますが、尚侍・御匣殿は、大臣家の姫君が、だいたい、なるので、そのまま、女御になることが、多かったそうです。[桔梗]
・尚侍は源氏物語の時代、従三位相当でした。内侍司の長官であるため、「更衣」と比べるべき官ではありません。が、血筋・格式・位とかにおいては、更衣より尚侍の方が上ですね。[えるるん]
・ありがとうございました。[松]


早乙女
さんの疑問
最近「あなたのお好みはどちら?」で見かける名前、「大江の君」とは誰のことなのでしょうか?

・近江の君の間違えでは?出題者は、『おおえ』と呼んだんじゃないんですか?[松]
・確証は得れませんが「宇治十帖」に登場しているみたいです。[たー坊]
・松さん、たー坊さん、有難うございました。[早乙女]


桔梗
さんの疑問
今上帝(明石の中宮の夫)は、何故、桐壺帝・朱雀帝・冷泉帝みたいに、名前が無いのですか?

・答えにはならないとは思いますが現在の天皇も「平成天皇」とは言わず「今上天皇」などと言います。退位したのちに名称が付けられます。つまり「昭和天皇」は崩御したことにより「昭和天皇」と呼ばれます。おそらく、これに該当するのではないかと思います。[たー坊]
・ちなみに原文でも「今上帝」になっています。名前はありません。ただ、作者の紫式部(宇治十帖は紫式部とは別の人物が書いた説がありますが)が書かなかったのです。[たー坊]
・たー坊様、有難うございました。[桔梗]


うさこ
さんの疑問
雲居の雁と藤典侍と落葉の宮は誰が一番年上だったのですか?また年齢差を教えてください。

・これについては明記されていないので私の想定によるものですが雲居雁と藤典侍はほぼ同じ年だと思います。順番では一番が落葉の宮が年上かと思います。[たー坊]
・雲居雁は夕霧の2コ上です。藤の典侍と落葉の宮のハッキリした年齢は不明です。落葉の宮は女三の宮の姉なので、夕霧巻では20代半ばくらいではないかと思われます。雲居雁が宮より年上だっていうのは間違いなさそうですね。[えるるん]
・ああ、たー坊さんとバッティングしちゃいました(汗)。[えるるん]
・女三の宮と女二の宮との年齢を考えると、えるるん様のが確かなのかも知れません[たー坊]
・以上のことから順番では一番年上が女二の宮、二番目が雲居雁と藤典侍(差はあまり無いと思います。)と言えるでしょう。[たー坊]
・えるるん様へ:下記の、すめらぎ様への質問でもバッティングしてしまいましたね(笑)こちらこそぶつかって、すいませんでした。[たー坊]
・ご回答有難うございました!!^^[うさこ]



さんの疑問
薫は、女三宮の顔を知らないのですか?

・出家しているとはいえ、普通に邸に住んでいるので知っているのでは、と思われます。[紫乃]
・女三の宮は自分が親(母親)なのに薫を自分の親のように頼っていたそうです。そのことから顔は知っていると思います。第一、親子ですから・・・。[たー坊]
・御二人とも、ありがとうございました。[松]



さんの疑問
秋好中宮や、朝顔の姫のような斎宮とか斎院というのはいつの時代まで実在していたのでしょうか?

・伊勢の斎宮は、天武天皇の時代、天武天皇の第二皇女・大伯皇女(おおくのひめみこ)が選ばれてから、[Miyabi]
・すみません、途切れてしまいました・・・。後醍醐天皇の時代、後醍醐天皇の第二皇女・ヨシ(りっしんべん、くさかんむりの下に口が2つ、その下にふると り)子内親王までの658年間(673年〜1331年)も続きました。賀茂の斎院は、嵯峨天皇の時代、嵯峨天皇の第三皇女・有智子(うちこ)内親王が選ば れてから、順徳天皇の時代、後鳥羽天皇の第三皇女・礼子(れいこ)内親王までの402年間(810年〜1212年)まで続きました。[Miyabi]
・ありがとうございました[葵]


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