源氏ファンの助け合い(^^)

源氏物語質問箱2

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m



さんの疑問
六条院の姫君方で一番年上、二番目、三番目、四番目、は誰ですか?

・松さんの質問は「源氏の妻の年齢」のことと思い、「源氏の妻の年齢順についての質問だと思いますのでそのようにお答えします。一番年上が 紫の上で次に明石の上、秋好(梅壺)中宮となっています。なお、花散里の年齢に関しては記載が無いので不明です。ただ、紫の上よりは年上かと思います。基 本的に三者の年齢は1歳差くらいです。明石の上の年齢は紫の上の1つ下で、秋好中宮とほぼ同年齢になっています。だた、数え年での年齢であり、また、資料 によっては異なるかもしれません。[たー坊]
・明石の上と秋好中宮の年齢の差は無いものと考えても良いかと思います。[たー坊]
・最終的に三者の中では紫の上が年上です。花散里については彼女の性格などからによる私の勝手なる考えです。[たー坊]
・年齢差は、紫の上(春の町)>1歳>明石の御方(冬の町),秋好中宮(秋の町)>5歳>玉鬘(夏の町)>12歳>女三の宮(春の町)>2歳>明石の中宮(春の町)となります。[Miyabi]
・ありがとうございました。花散里といえば、玉鬘の母親役も勤めていらっしゃいますよね?[松]
・↑の事ですが、そうです。花散里は玉鬘の母親役をしました。[たー坊]
・ありがとうございます。夕霧の母役も勤めたと思うんですが・・・。[松]
・↑の通り彼女は夕霧の母親役もしています。他は夕霧の子(藤典侍腹)の子の母親役もしました。[たー坊]
・藤典侍の子供・六の君の育ての親は側室・落葉の宮[松]
・↑の続きです。藤典侍の娘・六の君の育ての親は夕霧側室・落葉の宮と聞きましたが・・・。[松]
・明石の姫君(中宮)が子を出産したのを聞いて花散里がうらやましがり夕霧に頼み、三の君(藤典侍腹)の養母役をしました(ただ、資料によっては雲居雁 腹、藤典侍腹の子の数や出生順が違っているので、もしかすると三の君では無いのかも知れません。何番目の子なのかの記載も無いのもあります)。落葉の宮の 場合は六の君(藤典侍腹)で間違いありません。六の君は美人であった事から身分の低い藤典侍に育てられるよりも落葉の宮を育ての親にした方がグレードが上 がるからです。だから匂宮の妻になれました。なお、落葉の宮は皇女であることから雲居雁と同様に「正妻格」であり、「側室」と呼ぶのは適さないのか も・・・。[たー坊]
・ただ、雲居雁と落葉の宮を区別するために「側室」という言葉は使っても良いかと思います。あくまでも彼女の身分は皇女であることから「側室」と決めつけるのは失礼なことになってしまいます。[たー坊]
・度々、すいません。最終的に雲居雁と落葉の宮の優劣は付けられません。[たー坊]
・難しい事ですね。ありがとうございました。[松]


こんきち
さんの疑問
近江の君は最後どうなったのですか?

・故郷(近江)に戻りました。以降は「若菜上」の巻に出たのが最後です。[たー坊]
・ご回答ありがとうございました![こんきち]



さんの疑問
真木柱の生涯はどうなったんですか?

・蛍兵部卿の宮は、玉鬘が好きでしたが、その思いは叶わなく、玉鬘の義娘である、真木柱と結婚しました。しかし、愛は薄く、通いもあまり、 なかったようで、蛍兵部卿の宮の死後(宇治十帖)、頭の中将の息子(柏木の義弟)の紅梅と結婚して、幸せになりました。子供達も、なついてすごく、可愛 がったようです。[桔梗]
・ありがとうございました。前半は不幸でも後半は幸せでしたね。残り物には福がある。ですかねえ。[松]
・紅梅と柏木の母は右大臣四の君です。同腹の兄弟です。「柏木の義弟」と書かれていたので念の為・・・。[たー坊]


桔梗
さんの疑問
花散里は、一回でも光源氏と、肉体関係はあったのですか?

・あったと思います。しかし、やがてそういう事(肉体関係)が抜きで恋愛していました。なお、ユルスナールというフランス女流作家が「源氏 の君の最後の恋」という題で源氏の最後の話を書き、その場では肉体関係の場面もあります。最終的に肉体関係はせずとも花散里とは心は通じ合える存在だった と思います。「蛍」の巻では彼女は共寝しませんでした。彼女曰く「もう年だから・・・。あなた様(源氏)のお心で十分でございます。」などと言っていまし た(新潮社 「新源氏物語」 田辺聖子)。[たー坊]
・たー坊さ、ま、有難うございました[桔梗]



さんの疑問
藤典侍の家系を教えてください。アイコンで見ると、冠を付けていました。

・藤典侍は源氏の乳兄弟の惟光(藤原惟光)の娘です。藤原の一族ではありますが、細かい家系については記載されていません。ただ、惟光の実 家は五条にあったことから下級役人の出と分かります。後に惟光は参議まで出世し、娘と夕霧の間に生まれた娘は皇女級の扱いを受けたことから、ある意味、映 画を極めたと思います。[たー坊]
・藤の典[桔梗]
・すみません。↑の続きです。藤の典侍の家系については、たー坊様の仰る通りです。冠をつけていたのは、藤の典侍は、五節の舞姫だったからです。そこで、 夕霧に見初められて側室となりました。藤の典侍については、雲居の雁も認めていたようで、彼女の娘は、匂うの宮の正室(東宮妃)となりました。[桔梗]
・ありがとうございます。[松]


えりか
さんの疑問
平安時代、皇女の結婚は珍しくなかったのですか。皇女と結婚するとやっぱり出世に有利だったんですか。

・基本的に内親王は独身でいるものとされていました。理由は「神に仕える身だから」など諸説あります。ただ、政治的意図や内親王の事情(女 三の宮や薫と結婚した女二の宮は母を亡くした事などから姫君の今後を考えて)を考えて臣下と結婚させた例もあります。例外もあるのかもしれませんが皇女と 結婚するのは名誉なことであり、出世にも有利だったと思います。ただ、多かったかというと、「多いような少ないような」と言った感じです。[たー坊]
・多分、上記の事情には当てはまらず、普通に皇女との結婚もあったと思います。[たー坊]
・皇女の結婚が少ないのは、身分の釣り合う人間が少ないからだ、と聞いたことがあります。全て知人からのまた聞きですが、それによるとこういう事のようで す。⇒一夫多妻社会では、身分のピラミッドの頂点に近い男ほど同階級または一つ下の階級の女性をたくさん妻にできるのですが、=女性は格下の相手との結婚 はあまり考えられなかったようです。姫の親が男の器量(外見に非ず)を見込んで結婚を許す場合ももちろんあったででょうけど。つまり、貴族制の頂点近くに いる皇女の結婚相手として考えられるのは、天皇・同格の皇族であり、降嫁という形では臣下の中でも大臣や摂関家クラスがかろうじて候補に含まれた、くらい だったようです。神に仕えるというのもその延長で、唯一天皇家より位が高い存在である神との結婚(神妻となること)があったのだと思われます。[美凪]
・回答ありがとうございました。[えりか]
・基本的に内親王の結婚は禁止されていました。ですが時代とともにその禁令も形骸化されたようです。[はや]



さんの疑問
明石の入道は、明石中宮と、会ったことがあるのですか?後、源氏物語内で、明石の入道が死ぬ巻はあるのですか?

・中宮がまだ幼い頃は、明石で一緒に暮らしていましたが、松風巻で姫君らが上京した後は、妻・明石の尼君とも、娘・明石の御方とも、もちろ ん孫である明石の中宮とも、1度も会っていません。また、若菜上巻で明石の中宮(当時は女御)が一の宮(のちの東宮)を出産したことを知ったすぐあとに、 深山に分け入ったことは記されていますが、彼の死は記されていません。[Miyabi]
・明石の入道は明石の中宮と会ったことはありません。[ナミ]
・ありがとうございました。孫は子よりかわいいというのに・・・・。[松]


ナナ
さんの疑問
平安時代では、女が男に押し入られても、拒むことははしたないことだとされていたようですが、人妻である女三宮の場合なども、抵抗するわけにはいかなかったのでしょうか?

・当時の姫君は、人を呼ぶだけの大きな声が、出せなかったそうです。でも、御付きの女房方は、側にいたのではないのかな?と、思います。何故、助けなかったのでしょう。[桔梗]
・柏木を手引きをした小侍従の君が、前もってお付きの女房達を遠ざけておいたのかな?と思います。三宮付きの女房達はまだ若くて、それほど気が利かなかったようですので・・・。[桐桃]
・どうやら、女房たちがみんな賀茂祭(葵祭)見物のために里下がりして、人が少なくなる時を選んで小侍従の君は柏木を手引きしたみたいですよ。[Miyabi]
・ありがとうございました。やはり彼女の場合は仕方がなかったのでしょうか・・・?[ナナ]


たー坊
さんの疑問
匂宮は中の君と異母姉妹関係の浮舟も囲もうとしましたが、平安時代では姉妹の両方を自分の妻にした例はあるのでしょうか?

・一条天皇は、定子と、定子が死んだ後に彼女の妹を側に置き、妊娠もさせてしまいました。(が、彼女(定子の妹)は、正式に女御などには なっていなかったようです。。)もし自分の父親が、自分が物心ついたころに継母を溺愛?して妊娠させたら、女の子としては嫌でしょうねぇ^^;[早乙女]
・ご回答、ありがとうございました。[たー坊]
・真でございますか?!一条帝とは、あの障子の嫁いだ帝ですよね?まあ…定子はよほど愛されていたのですね。[葵]


えりか
さんの疑問
宇治の八の宮の北の方は何大臣ですか。また六条御息所の父は何大臣ですか。

・宇治八の宮の北の方(正妻)は「某大臣」としか記載されていないようです。また、六条御息所の父親は内大臣であったのではないかと推考できるようです。いずれもはっきりとは特定できません。[たー坊]
・たー坊さん、回答ありがとうございます。[えりか]



さんの疑問
前から非常に気に なっていたことなのですが、五舎のうちの雷鳴りの壺は天皇の雷の時の避難所で、梨壺は、女官の詰め所とあるのですが、(他に東宮の御所)つまり、梨壺は他 の梅壺や桐壺、藤壺とは部屋の扱いが違うということでしょうか?あと、女御や更衣など、后候補の女性達の御所として使われた殿や舎を、どなたか教えてくだ さい。お願いします。

・梨壺(昭陽舎)は、通常は東宮の局として使われ、東宮妃がいらっしゃったことはあっても、帝の妃がいらっしゃったということはあまりあり ませんでした。でも、村上天皇の皇后・藤原安子が、一時期梨壺にいらっしゃったことがありました。また、后候補の女性、つまり有力な家の娘は、帝の住まい である清涼殿により近い殿舎(藤壺(飛香舎)、弘徽殿、常寧殿、麗景殿など)にいらっしゃいました。[Miyabi]
・解答いただき真にありがとうございます。非常に嬉しいです。[葵]


たー坊
さんの疑問
雲居雁の名前が書 物によって「雲井雁」になっていたりしますが、後者(雲井雁)のは「伊勢物語、筒井筒の段(二十三段)」の「井」が由来で正しいのでしょうか?。また、彼 女の名前は前者(雲居雁)が正しいと思いますが。そうなのでしょうか?確か「乙女(少女)」の巻で「群れから離され、雲に居る雁のようだ」などから「雲居 雁」の名前になったと思いますが。

・辞書では、くもいとひくと雲居が一般のようです。しかし、電子辞書は末摘花や夫夕霧は載っていても雲居の雁は出てないんですね[葵]
・回答、ありがとうございました。[たー坊]


yuri
さんの疑問
末摘花の父、「常陸宮」について教えて下さい。父親や身分等・・・おねがいします。

・「常陸宮」の名前の通り、親王であります。ただ、「常陸宮」の父院などについて、原文に記載がありません。つまり不明です。[たー坊]
・とりあえず、桐壺帝や三条大宮とは違う院の生まれのようですね。やはり不明です。[葵]


ナナ
さんの疑問
藤壺の出家って、結局どれほどの意味があったんでしょうか?源氏を東宮と自分の後身人として得るため、ということになってますけれど、源氏は結局その後朧月夜との一件がもとで、都を追われることになってしまったし・・・。

・本人のせめてもの誠意であり、気休めにはなっているのではないでしょうか。[葵]
・葵さん、ありがとうございます。[ナナ]


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