源氏ファンの助け合い(^^)

源氏物語質問箱19

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m


けや木屋小さん
さんの疑問
淑景舎は「桐壺」と、雅な名前がついていますね。でも、襲芳舎だけ、どうして「雷鳴壺」?ほかは桐壺とか梅壺かわいい、雅な名前なのに。もし、自分がこの局にいて、「雷鳴壺の女御」なんて呼ばれたら嫌ですよ。「雷鳴壺」の名前の由来を教えてください。

・襲芳舎の庭に「霹靂(へきれき)の木」があったので、「雷鳴壷」の名前がつきました(「霹靂」は雷のこと)。でも、実際にはこんな名前の 木はないんですよね…。たぶん落雷で焼けた木のことをそう呼んでいたのだと思いますが、詳細は分かりません。でも、雷で焼けた木が常に目の前にあったら嫌 ですよね(^_^;)[美凪]
・そうゆうことですか。自分の部屋がここだったら、うわー、嫌だ!場所的には、わりと清涼殿に近いですが、寵の深い、女御や更衣が使ったのですかねえ[けや木屋小さん]
・美凪さんに付け足しなのですが、雷を避けるために帝が逃げたのがこの部屋だったから、という理由もあると聞きましたよ。[みぃ]


けや木屋小さん
さんの疑問
平安の頃の帝は、平均30人の女御、更衣を持っていたと本で読みまし た。後宮は12舎しかありませんよね。ということは、女御や更衣の居住スペースはわりと狭かったのですか?お抱えの女房もいることだし。あと、これだけ後 宮に女性がいると、一度も帝の「お召し」がなくて終わってしまった更衣もいたのでしょうか?

・平均で30人なんていませんよ?平安時代の平均は、5〜6人くらいではないでしょうか。一番多いのは醍醐天皇の10人の時代だと思いま す。確かに身分・後見があれば入内は可能でしょうが、さすがに30人はいなかったんじゃないでしょうか。 ちなみに他の物語の描写では、女御が入内する 折、女房だけで四十人連れて入ったというものもあります。更衣はどうかわかりませんが、少なくとも、妃が多すぎて殿舎が足りない場合でも、女御・妃が相部 屋(同じ殿舎を使用)することはなかったのではないでしょうか。[みぃ]
・余談ですが、笑芭さんという管理人さんが開いている「源氏の部屋」というサイトには、誰がどの天皇に嫁いだ課などの表が掲載されているので、ご興味があったら是非確認してみてください。(他のサイトをお薦めしてしまって申し訳ございません^^;)[みぃ]
・そうですよねー。いくらなんでも、んなわきゃねいですよね。(−−;[けや木屋小さん]
・この説はある予備校講師が書いた、源氏の解説本に載っていたんです。「そんな馬鹿な!」と思い、質問しました。あと、「尚侍は女官というのは形だけ、実 質は天皇の妻である」という説明もありました。これも、ちょっと違うような。「朧月夜のように、帝の愛人となった尚侍もいた」ということですよね。朧月夜 は最後まで、朱雀帝の愛人だったし[けや木屋小さん]
・みぃさんの書いているサイトは、http://homepage2.nifty.com/Eva-Genji/index.htmです[快斗]



さんの疑問
源氏のお父様は一般的に「桐壺帝(院)」と呼ばれますけれど、現実に、歴代の帝で後宮の殿舎の名前で呼ばれた方っていらっしゃるのでしょうか? けっこう異色の呼び名のような気がするのですが・・

・当時の帝の呼び名(譲位し、亡くなった後の呼び名)は何パターンかの規則性があるのですが、平安時代以降に多かったのは、院になってから (内裏を離れてから)住んだ屋敷「院」があった場所、というものが多いですね。一条帝なんかは、里内裏として一条の屋敷を使用していたので、おわかりで しょう。後宮の殿舎を呼び名にされた方は…いないはずと思います。[みぃ]
・すいません、「多かったのは――多いですね」という文はおかしいですね(汗)一方を消して読んでください(^^;)[みぃ]
・ありがとうございます☆ みぃさんの説明はいつもわかりやすくて助かってます(^^) しかし、「桐壺帝」という呼び名は「すっごく桐壺に入りびたりだった人」と[菊]
・↑続きです。「すっごく桐壺に入り浸りだった人」と呼んでいるような感じですよね・・。[菊]
・そうですね。本来殿舎は妃たちの住む場所(梨壺は東宮の在所でもありましたが)だったので、もし本当に「桐壺帝」「弘徽殿帝」なんて呼んだりしたら、他 の妃やその一族に示しがつかなかったでしょうしね(^^;)というわけで、殿舎(ひいては更衣の呼び名)を呼び名にしたのは、物語だからできたのではない でしょうか。[みぃ]
・なるほどですね〜、納得しました![菊]


けや木屋小さん
さんの疑問
「朝顔の斎院」の「朝顔」は「桔梗」ですか?あの時代の日本に現代のような朝顔があったのでしょうか?秋の七草の朝顔は桔梗ですから、桔梗かな?と思うのですが

・万葉時代に「朝顔」と呼ばれていたのは桔梗です。秋の七草に含まれているのもそのためですね。(万葉集の歌に含まれています)現在の「朝 顔」は平安時代に中国から輸入され、今もなお根付いているのだそうです。ちなみに桔梗だけではなく、ムクゲの花も「槿」とかき、あさがおと呼ばれていたそ うですよ。「朝顔の斎院」の場合歌に朝顔が歌われたのでそうなったのですが、使われたのは現代の朝顔という解釈でいいのではないかと思います。[みぃ]
・↑つまり、「朝顔の斎院」の「朝顔」は今の「朝顔」でいいということです。歌は「朝顔」の章段をお読みください。[みぃ]


けや木屋小さん
さんの疑問
「あさきゆめみし第1巻」では、桐壺の更衣が帝の側室というより、後宮の女官といった感じで登場しますね。更衣はそんなに身分が低かったのですか?イメージとしては、女御に順ずる位だし、賜れた局で帝のを待つというふうなのですが

・更衣は、元々は天皇の衣替に奉仕する女官のことでした。それが平安時代初期に位が上がり、天皇の后妃になったのですね。ですから、源氏物語の時代では、あの扱いではなかったはずだと思います。多分、ああいったお仕事は、御匣殿で行われていたのではないでしょうか。[みぃ]
・ありがとうございます。あの、さらに質問なんですけど、「御匣殿」とは、何でしょう?また、どう読むのですか?[けや木屋小さん]
・「御匣殿」は「みくしげどの」と読みます。貞観殿(後宮十二舎の一つ)にあり、内蔵寮で政策する物以外の装束を調えるのが仕事でした。ちなみに内蔵寮は 中務省に属した職務で、宮中の宝物や天皇・皇后の装束などを納める蔵を管理したり、祭式の折の準備をしたりしたう役所です。「くらりょう」と読みます。[みぃ]
・誤字です。「内蔵寮で政策」ではなく、「内蔵寮で製作」でした(^^;) あさきゆめみしで桐壺の更衣が用意していたのは天皇の御衣でしたっけ?手元にないので不確かですが、もしそうだとしたら、その仕事をするのは、内蔵寮のほうなのかもしれませんです。[みぃ]


けや木屋小さん
さんの疑問
この間、NHK「歌舞伎末積花」を見ました。原作とは違い、零落して貧乏している末積花に、盲目の貴公子が求婚をしてきて…という内容です。脚本は誰が書いたか、どなたか教えてください

・北条秀司さんですね。[快斗]
・この方は、いろんな源氏脚本(映画等)を書いていますよ(^-^)[快斗]
・ありがとうございます。「北条源氏」版の「末摘花」、好きです。原作を超えた作品だと思います。[けや木屋小さん]


みぃ
さんの疑問
「過去に同じ父母から生まれた内親王が同じ男性に嫁いだという前例は現実の世界である」というものがあったのですが、誰が誰に嫁いだのでしょうか?それから、二人は同時に(もしくはお互いが生きている間に)その人の下に嫁いだのでしょうか?教えてください。

・それは多分、奈良時代のことだと思います。異母兄妹・異母姉弟結婚も可能な時代でしたから天智帝は大田皇女と後の持統天皇(このふたりは 同母姉妹です。)とさらに異母姉妹の四人の姫を弟の天武帝に嫁がせたと聞いています。ほぼ同時期だと思いますが、大田皇女は姉なのですが早くしてなくなり ます。ちなみにこのふたり同時期に皇子を産みますよ。この時大田皇女に産まれたのが有名な大津皇子で持統天皇に産まれたのが草壁皇子です。大田はもうひと り大伯皇女を産んでいます。このくらいで分かりましたでしょうか?[かな]
・回答ありがとうございます。奈良時代のことは私も知ってました。ですが、となると、臣下の男に嫁いだ事にはなりませんよね?下の解答欄では、「一人の臣下に二人の内親王が嫁いだ」というニュアンスで書いてある気がするのですが…これはどうでしょうか?[みぃ]
・もう1個、平安時代で、という条件ではどうなのか知りたいので、教えてください。[みぃ]
・「臣下に嫁いだ同母姉妹の内親王」ですが、平安時代、醍醐天皇と更衣源周子の間の勤子内親王・雅子内親王が藤原師輔に嫁しています。しかしこれは色好み で名高い師輔が女房の手引きなどで近づいたいわゆる事実婚で、正式な結婚とは言いがたい点があります。それに雅子内親王と師輔が通じたのは勤子内親王亡き 後のことですから(それ以前から通じていたという説もありますが)、同時期ではありません。あと平安時代ですと、臣下ではありませんが、光考天皇と班子女 王の簡子内親王・すいし(漢字が出ません・・)内親王は、陽成院妃となっています。詳しいことは分かりませんが・・。曖昧でごめんなさい![はるあき]
・いいえ、助かりました。教えてくださってありがとうございます。[みぃ]


姫宮
さんの疑問
この前の新聞に「桐壺」と「帚木」の間に「輝く日の宮」という一帖があったといわれていますがほんとうでしょうか?

・これは「まろ、ん?」の説明がとてもわかりやすいので、それを借ります。青表紙本大成者・定家の注釈書・「源氏物語奥入」によると、 「二・一説にかかやくひの宮 この巻なし」とあります。「輝日宮」帖が以前はあったらしいが定家の時代にはすでに散逸していた、ということです。[えるるん]
・内容はもちろん不明ですが、藤壺と源氏の最初の密通・六条御息所との出会い・朝顔との出会いなどのことが書かれていたのでは、という論があります。「桐壺[えるるん]
・↑続きです。「桐壺」巻から「帚木」巻への流れが唐突であることもあって、この説は現在支持されているようです。[えるるん]


めけち
さんの疑問
李夫人と楊貴妃は実在の人ですか?浅学で恥ずかしいです。

・実在の人物でした。楊貴妃は、世界三大美人にもカウントされてますよね。[みぃ]


京の直衣
さんの疑問
女三宮と源氏、紫の上と源氏はどの位歳が離れているのでしょうか?

・源氏と紫の上は5歳差・・ではなかったでしょうか、確か。[菊]
・紫の上が源氏に会ったときは、7歳差だったと思います。ですがその後、「若菜下」の帖では、10歳差、ということになっています。女三宮と源氏の年の差は、25〜6歳だそうです。[みぃ]
・源氏と紫の上は8歳差、源氏と女三の宮は25〜26歳差です。[春菜]
・すいません、後で調べたのですが、「若紫」の帖では、源氏が18歳頃だったのに対し、若紫(紫の上)は10歳前後だとしか書かれていません。ですから、差は8歳前後となり、断言はできないようです。[みぃ]



さんの疑問
源氏の添い伏しは葵上だったわけですが、それはつまり、源氏がはじめて 関係をもった女性が葵上だという意味ですか? 性の手ほどき係という意味で添い伏しは年上の姫から選ばれると本で読んだことがありますが、あの「姫の中の 姫」葵上が手ほどきするなんて想像もできません。 それとも当時の姫君教育にはしっかりそれも組み込まれていたということなのでしょうか?

・添臥はそのまま正妻に上がることが多かったのでそう思われるかもしれませんが、源氏物語の中では厳密には言及されていません。添臥しはし ても、実際に共寝をするということがないままおわることもありましたし、逆もまた然りです。性教育が組み込まれていたかといいますと、結婚する直前に、絵 巻物などで知識を与える、といったことがされていたと、何かで呼んだ記憶があります。また、夫をひきつけて置けなくては困るので、乳母などの教授もあった ようです。(えげつない書き方ですいません)[みぃ]
・話がかなりそれてしまうようで申し訳ないんですが、若君の性の手ほどきは乳母が「身をもって」行う場合もあったようです(光源氏は違うと思うけど)。もっと後の時代ですが、それで子供ができて乳母が若君(皇族)の愛人になってしまった、なんてこともあったとか。[美凪]
・なるほど、わかりやすい説明をありがとうございます! 答えづらい質問に快く答えてくださったお二方に感謝ですm(_ _)m[菊]


うさこ
さんの疑問
薫は女二宮と女一宮の両方を妻にできたらいいと言っている場面がありますが、内親王を同時に2人も妻にできるのですか?もしそうなったらはじめから正妻の女二宮とあとから来た身分の高い(?)女一宮ではどちらが正妻になるのでしょうか。教えてください。

・同父の内親王を一度に、というのは無理ではないでしょうか。仮にも内親王ですから、一人の家臣に二人を、というのは考えられない気がします。[みぃ]
・そうなのですか。ご回答ありがとうございました。[うさこ]
・過去に同じ父母から生まれた内親王が同じ男性に嫁いだという前例は現実の世界であるので出来たと思いますよ★ただどちらが正妻かと言われると迷ってしまいますけど。。[みたび]


みんみ
さんの疑問
夕顔の父は三位の中将であったとありますが、では明石の入道も三位の中将だったので、夕顔と明石の上は同じくらいの身分と言う事になるのですか?

・明石の入道は父親が大臣であるのに対して夕顔は不明な点が多いことや書かれている内容から推測すると明石の入道の方が上になります。したがって明石の上の方が上と言えます。また、明石の上の娘が国母となったので更に上と言えます。[たー坊]
・明石の入道は父親が大臣であるのに対して夕顔は不明な点が多いことや書かれている内容から推測すると明石の入道の方が上になると考えられ、したがって明石の上の方が上と言えるかも知れません。また、明石の上の娘が国母となったので更に上と言えるかと思います。[たー坊(訂正)]
・よくわかりました、ありがとうございました。[みんみ]


天野 翔
さんの疑問
平安時代(1020年頃)に、『源氏物語』を最後の巻まで読めますよう に、と祈った少女がいます。その女性が10代の前半に住んでいたところは何処ですか?、その少女が書いた作品に因んだ名前の道路があります。それはどこに ありますか?、その少女が後年に書いた日記の名前はなんといいますか? この3つが質問です〜、どうか宜しく願います(涙 (下のBNは失敗デス)

・えっと…それは、「更級日記」の事だと思うのですが…もしかして、クイズのおつもりでしょうか?そうだとしたら、こちらは「自分が疑問に 思ったことを質問する」コーナーですので、場所が違いますよ。クイズがしたいなら、TOP下辺にある「源氏クイズ」のところで参加してはいかがでしょう か。[みぃ]
・(TT)、クイズではないのですよ(涙、本当に分からないのでここに書き込みました(汗、正直に申すとレポートでこんな問が出てまして、調べても分からないので(涙[天野 翔]
・詳しそうですからありえないと思いますが、もし純粋に質問だったとしたら、質問の答えはこうです:日記の名前は更科日記。住んでいたのは上総。ちなんで名づけられた道の方はわかりませんけれど、[みぃ]
・インターネットで御自分で探してみてはいかがですか?キーワード検索すれば出てくる気がします。(↑続きです)[みぃ]
・そうですか。納得しました。レポートの調べ物だったら、インターネット→図書館の順で両方使ったほうが正確で詳しく調べられると思います。インターネットだけでは正確さにかけるので(検閲がないので個人の思い込みが主張される場合などもあります)、気をつけてください。[みぃ]
・さらしな、って読むのデスネ(汗、どうやらコレのようですf(^^;、変な質問でしたがどうもありがとうございました(苦笑[天野 翔]


リョク
さんの疑問
帝の同母兄がいるのに弟が東宮になるということはあるのですか?宇治で、今上帝譲位のときには(同母兄の二の宮がいるが)三の宮(匂宮)を東宮にと考えている・・・ということが書かれていますが・・・・

・ちゃんと二の宮については次の坊(東宮)として世間が認めている、との記述があります。三ノ宮である匂宮はその次の東宮として考えられている、といったところでしょう。母である明石中宮が匂宮を可愛がるので割と思い込みされやすいところです。[はや]

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