源氏ファンの助け合い(^^)

源氏物語質問箱17

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m



紗瑜
さんの疑問
帝の命令(?)があればどんな身分でも女御、中宮になれたのですか?

・なれません。政治はそんなに横暴がまかり通るものではないのですよ(^^;)女御・中宮になる条件は、以前もかかれてあったのですが、も う一度説明いたします。帝の妃には更衣・女御がいまして、納言クラス(少納言を除く)は主に更衣でした。女御は主に親王や大臣クラスの娘、もしくは孫娘。 中宮はその女御達の中から選ばれるので、条件は女御と同じです。源氏の母親である「桐壺の更衣」が更衣だったのは、彼女の亡くなった父親が大納言どまり だったからです。彼女自身、亡くなって初めて三位の御位を賜りましたが、それも異例の事でした。[みぃ]
・付け足しです。納言クラスの父親を持つ娘でも、その親戚(主に祖父ですが)などの養女としてならば、女御としての入内がまかり通りました。頭の中将の娘「弘徽殿の女御」もまた、その一人です。[みぃ]
・みぃさんごめんなさい。私の勘違いでした。[みぃ]
・どうして私の名前を使ってかかれたんですか?最後のは私の発言ではありません。ちょっと気に障ります。>紗瑜さん[みぃ]
・↑紗瑜さんじゃなかったらごめんなさい。[みぃ]
・ごめんなさい!!ごめんなさい!!間違えました!!みぃさんごめんなさいから始めようと思っていたためにみぃって書いてしましました><お許し下さい〜〜〜!!!ごめんなさい。悪気あってのことじゃないのです!![紗瑜]
・だったらかまいません。新手の荒らしかと思って過剰反応してしまいました。こちらこそごめんなさいね(^^;)[みぃ]
・いえ、私が悪いのですから・・・・お騒がせして本当にごめんなさい。。[紗瑜]


姫宮
さんの疑問
紫の上は藤壺の宮に似ていると言われていますが、母親に似たのでしょうか。

・紫の上が藤壺の宮に似ているのは、紫の上の父(兵部卿の宮)が藤壺の宮の同母兄だったからです。紫の上の母は早くに亡くなっており、紫の 上は母の母、つまり祖母に育てられました。祖母は源氏が熱病で北山に行ったとき加持を受けた僧都の妹です。また、母方の祖父(先ほどの祖母の夫)は按察使 の大納言です。紫の上の母についてはこれ以上書かれていないので、紫の上は父の妹である藤壺の宮に似たとしか言えないのです。[蘭]


紗瑜
さんの疑問
花散里、麗景殿の女御の父母は誰でしょうか?

・母親は不明です。父親も不明なのですが、大臣であるとの説が有力のようです。[えるるん]
・えるるん様、どうもありがとうございます!![紗瑜]


とも
さんの疑問
紫の上と葵の上どっちの身分が高いのですか。

・紫の上の父・兵部卿宮は、先帝の子で(藤壺の宮の同母兄)皇族ですが、紫の上の母は、大納言の娘で身分が低く、早く亡くなってしまって、[春菜]
・後見がいませんでした。葵の上は、父は左大臣、母は正妻の大宮(桐壺帝の同母妹)で、内親王に次ぐぐらいの身分です。東宮妃に望まれ育てられたほどです。ですから、葵の上の方が身分が高いです。ようするに、後見がいるかいないかで身分は決まってしまうのです。[春菜]
・どうもありがとうございました![とも]


マユ
さんの疑問
紫の上は本当の正妻ではなかったとありましたが、紫の上は源氏の正妻にふさわしい身分ではなかったのですか?

・紫の上は兵部卿宮の外腹の娘で、頼るべき後見がいませんでした。なので、夫である源氏に養われてる身となっているということです。[春菜]
・身分というのには外れる話題ですが、源氏と紫の上の結婚が通常の手順を踏んでいないこともまた彼女の立場の危うさを物語っているといえます。[えるるん]
・正妻というものは、妻の中で一番、身分の高い姫君がなります。女三ノ宮の降嫁前は、紫の上が源氏の正妻格でした。しかし、内親王の降嫁とあり、身分では負けているので、正妻の座から追われてしまうのです。[桔梗]
・身分的には・・・どうなんでしょう。外腹とはいえ親王の娘ですから、家柄は問題なかったと思います。むしろ問題は、源氏との結婚の形態にあったかと。本 来通い婚では、結婚に関すること(費用含む)や生活全般の面倒を見るのは女性の家です。男性の実家はほとんど関わりません。源氏と紫上の場合はこれから外 れています(源氏が全てやっていますから)。何より、二人は所顕(「ところあらわし」漢字合ってたっけ・・・?現在の披露宴のようなもの)を行っていませ ん。これをしないと、身分関係なく公的に正式な妻とは認められないのです。ですから、紫上の公的な立場は源氏の妾なんですよね(彼女にはこういう表現使い たくないんですが)。ただ、葵上逝去〜女三宮降嫁まで源氏に正妻がいなかったこと、源氏自身が紫上を一番大切にしていたこと、源氏の権勢などから「実質的 には正妻のようなもの」と認識されていたようです。身分から話が大きくずれてしまってスイマセンm(__)m[美凪]
・美凪さんへ> ところあらわしの文字は美凪さんの核「所顕」でもあっていますよ。他に「露顕」と書いてもいいようです。(自信なさそうなので教えさせていただきました。迷惑だったらごめんなさい)[みぃ]
・いえいえ。ありがとうございました。>みぃさん[美凪]
・解答者のみなさん、ありがとうございました。[マユ]



さんの疑問
夕顔の父は三位の中将であったと知りましたが、一体どれくらいの地位なのですか?

・近衛中将は普通従四位下ですが、特別に三位の者を三位中将といいます。簡単に言えば出世コース・若手エリートの王道とも言える地位です。頭の中将(紅葉賀〜)や明石の入道なども三位の中将でした。[えるるん]
・唐突で恐縮ですが、薫(匂宮の帖にて。記載のない資料文献あり)も三位中将になりましたよ。他、夕霧(藤裏葉の帖以前。これも記載のない資料文献あり)もです。以上、付け加えでした。[たー坊]
・皆様、ありがとうございました。[南]


りん
さんの疑問
今上帝の母である承香殿女御の父母をおしえてください。

・つけたしですが、朱雀帝の后で、今上帝の母の承香殿女御の事です、お願いします。[りん]
・父母のことは分かりませんが、承香殿女御の兄は髭黒の大将です。[春菜]


みん
さんの疑問
下記の質問の回答で、皇后=中宮なので同時には存在しないとありますが、では桐壺帝の弘御殿は皇后、藤壷は中宮ではないのですか?

・違います。藤壺は中宮で良いですが、弘徽殿大后は皇后にはなっていません。弘徽殿は朱雀帝立帝にともなって皇太后になっています。二人とも三后についてはいます。[えるるん]
・えるるん様のおっしゃるとおり、弘徽殿は女御のままです。桐壺帝への入内順(東宮時代にすでに入内していた)や東宮の母であること、家柄を考えると、桐壺帝在位時に立后していてもおかしくない立場にあったため、藤壷宮立后はとても悔しいものであったようです。[美凪]
・よくわかりました、ありがとうございました。[みん]


うさこ
さんの疑問
薫と明石中宮の女房の小宰相との間には、肉体関係はあったのですか?

・あまり詳しくないのですが、田辺聖子先生版と瀬戸内寂聴先生版では肉体関係があったように語られてたと思います。[菊]
・あったでしょう。薫の愛人の一人と考えて良いと思います。自分の身内お付きの女房に手をつけることはよくあることですし。薫のそういった愛人は他にも登場してます。[えるるん]



さんの疑問
東宮妃が入内して桐壺や麗景殿に入られることがあるように物語で語られてますが、そちらには帝の后がいらっしゃるのでは・・?その辺りの折り合いはどうつけてるのですか?

・まず、後宮は必ずしも、「どの殿舎にも帝の妻が住んでいる」というわけではありません。空所があることも十分あります。また、東宮の在所が(大抵は)梨壺でしたので、梨壺に近い桐壺や麗景殿などに東宮妃が入内なさることはよくありました。[みぃ]
・みぃさんありがとうございます!  ・・そうなりますと、東宮妃がそちらの殿舎を使っているときは帝は出入りできないようになっているのでしょうか・・。[菊]
・そうでしょうね。もともと帝が十二舎に赴くのは、妃に会いに行くため(大概が)ですから、東宮妃に会いに行くことは無かったでしょう。[みぃ]
・重ね重ねありがとうございました!(^o^)[菊]


幟稀
さんの疑問
尚侍の君はないしのかみと読みますがあさきでかんのきみと読むことがあります。それは正しいのですか?

・↑でないしのかみのきみでした。ごめんなさい[幟稀]
・「ないしのかみ」を古語書きすると「ないしのかむ」になります。「かみ(かむ)」は長官の意です。「かむ」が現代読みで「かん」になるので「かんのき み」の言う言い方は正しいのです。朧月夜や柏木などはそれぞれ尚侍・衛門督なので「かみ(かむ・かん)の君」と言われます。わかりづらくてスイマセン;;[えるるん]
・えるるん様!わかりづらいなんてとんでもない!!一人パソコンの前でうなずいていましたよ(笑)ありがとうございましたぁ♪[幟稀]


たーさん
さんの疑問
もし帝の妃の浮気がばれたらどんな処罰を受けるのですか。

・処罰はないでしょうが、帝の怒りにふれたりするのは当たり前(朧月夜は例外かな?)[蘭]
・すいません。途中投稿してしまいました。続き書きます。当たり前でしょうが、それより世間から悪く言われます。皆に顔向けできなくなることもあるのでは?[蘭]
・女性側の処罰は厳密には決まっていません。天皇の寵愛度によるところもありますしね。三条天皇の下に侍っていた尚侍(道長の義妹)はばれましたけど、三 条天皇も執着していなかったのでお咎めなく、里邸に引き下がるだけすみました。ただ、蘭様のおっしゃるように、世間体も悪く、家族も白い目でみられること は必須だった用です。帝の怒りの度合いでは、身内の出世も遅れることがあったかもしれませんね。[みぃ]



さんの疑問
皇后と中宮は違うのですか?

・中宮=皇后です。二つとも天皇の正妻を表す名前なので、本来は同じ位(人物)のことを指します。中宮は皇后の別称といったところです。そ れが混乱してしまうのは、藤原道長が「すでに定子が中宮(皇后)になっている・・・けど、自分の娘も立后させたい!」と、名前が二つあるのを利用して無理 矢理(いろいろ言い訳を駆使して)「定子=皇后、彰子=中宮」という二后並立(早い話が天皇の正妻が二人)を押し通してしまったせいでしょうね。ですか ら、←のような例外を除けば、皇后と中宮の位を持っている女性が二人同時に存在することはありません。[美凪]
・中宮は、皇后になるための仮の地位らしいです。[MARI]
・美凪殿ありがとうございます!![蘭]


みーさん
さんの疑問
源氏は生涯紫の上を藤壺の宮の身代わりとして愛したのでしょうか。それとも紫の上自身を本当に愛していたのでしょうか。

・精神面は当人にしかわからぬところなので、賛否両論、といったところでしょうけれど、もし源氏が自分の気づかぬような無意識かにおいて藤 壺と紫の上を準えて思っていたとしても、本人は否定するでしょうね。現実にどのように愛していたかという事は、他の人間にはわからぬのではないでしょう か。[みぃ]
・最初のうちは、藤壺の宮の形代として紫の上を愛して、藤壺の宮のように育てたと思いますが、途中からは、「紫の上」である紫の上を、愛したのだと思いま す。そのために、恋人でもあり妹でもあった、紫の上が亡くなったときには、光源氏の落胆も大きかったのでしょう。(分かりづらくて、ごめんなさい。)[桔梗]


幟稀
さんの疑問
明石の中宮の母は世間から見ると紫の上だったのでしょうか?それとも世間も母は明石の方だと知っていたのでしょうか?

・紫の上は養母、明石の方は実母ということは、世間でも知られていたようですね。「若菜下」の帖でも、近江の君がさいころの良い目を出すのに明石の尼君の名を用いています。ですから、どちらがどちらという区別はつかないのではないでしょうか。[みぃ]
・みぃさんありがとうございます[幟稀]

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