源氏ファンの助け合い(^^)

源氏物語質問箱16

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m

幟稀
さんの疑問
準太政天皇とは院と同じ位ですか?それより低いのですか?

・太政天皇とは院の別称です。それに準じるという意味で「準」太政天皇とついているのですから、低い事になりますね。[みぃ]
・みぃさんありがとうございます[幟稀]


こうめ
さんの疑問
「東宮妃」は「東宮女御」とは違うものなのでしょうか?東宮にも複数の女御がつけられるはずですけど、正妻はもう東宮の段階で決まっているんですか?

・↑で「複数の女御」と限定してしまいましたが、「複数の女御更衣」(要するに奥さん)という意味です。[こうめ]
・東宮妃・東宮女御は同じで良いと思います。その女御の中で威勢や寵愛の上下はつけられるかとは思いますが、「正妻」というのはないでしょう。あくまで 「天皇」の正妻が中宮ですから。東宮の段階からはやめに入内しておいた方が、後々中宮となるべく有利だったという観念はあったようですね。[えるるん]
・えるるんさんありがとうございました。下のほうで、桔梗さん(と思うんですが)の返信の中に、「正妻は東宮妃と呼ばれる人」と書いてあったので、自分の 知識が間違っているのかと不安になってました。私もえるるんさんと同じ意見です。でも、明石の中宮はエクセプションでしたけどね(笑)[こうめ]


うさこ
さんの疑問
物忌みってなんですか?よくわかりません。。

・陰陽道に関するものですね。いうなれば、「障りがあるため身を慎まなければならない日」というところでしょうか。専門家ではないので、詳 しくはいえないのですが、人によってどの日かということも、何日間かという事も変わっていたので、かこつけてずる休みした人もいるそうです。平安時代には 休日という観念がなかったので、物忌みが休みの日に当たったのでしょうね。女性の月経などの期間も、物忌みになりました。[みぃ]
・大雑把に言ってしまえば、「あまり良くない日(災いを受けやすいとか)なので、外出を控えるべき日」でしょうか。具体的に何をするか、私の知っている範 囲でお答えしますと、まず仕事は休みです(公的に認められた休み。これを利用したずる休みもあったようですが)。人を訪ねることも、家に来た客人に会うこ ともできません。同時に、魔よけとして「物忌」と書いた紙片などをしのぶ草という植物の茎に結いつけ、冠・髪・御簾などに差しました。日数は人それぞれで すが、暦や陰陽師の占いによって決められていて、物忌みが年間で60日を超えた貴族もいたとか。他に、物の怪に出会った、不吉な夢を見た、不浄(死体な ど)に出会った場合も物忌みになりました。余計な意見かもしれませんが、みぃさんがおっしゃっている女性の月経は、正確には物忌みとは少々違うので は・・・と思います。邸に篭って人に会わないのは物忌みと同じなのですが、女性の月経は「血の穢れ」で物忌札は使いません。物忌みは穢れから自分の身を守 るためのもの、生理休暇(これも公休)は自分が穢れとなってしまっているため、ですから。この間は内裏に出仕している女官たちも、血の穢れを宮中に持ち込 まないために実家に下がらなければなりませんでした(妃たちについては知識がないんですが・・・)。穢れを他に移すのを避けるために手紙を書くことや裁縫 も出来なかったため、生理休暇は「手無し」とも呼ばれました。もしかしたら、物忌みの場合も手紙禁止だったかもしれませんが、現在手元に資料がないので 「可能性」ということで。[美凪]
・月経期間は物忌みではないのですか。間違った知識ですいませんでした。[みぃ]
・詳しく教えていただきありがとうございました!![うさこ]


竜牙
さんの疑問
夕霧って男性ですか?

・もちろん男性ですよ。源氏の嫡男で、雲居雁が正妻ですから。[春菜]


ふー
さんの疑問
源氏物語は、平安時代の人々も読まれてたのですか?

・もちろんです。当時大人気だったからこそこうして現代にも残っているのですよん。有名なとこだと、「紫式部日記」で道長が源氏物語の一部 をもってっただとか、紫式部が「若紫」ってよばれてからかわれたとか、「更科日記」に源氏物語がよみたくてたまらなくて仏にお祈りしたとか、そんな話があ ります。[ろんた]
・ろんたさんに付け加えて、「狭衣物語」ももろ源氏物語の影響を受けてるお話ですから、興味がありましたら読んでみてはいかがでしょう?これは平安期ではないのですが、「無名草子」の源氏論も有名なので是非^^[えるるん]
・ありがとう[ふー]
・ありがとうございました。とても為になりなした。[ふー]


瑠璃
さんの疑問
内大臣・左右大臣の位階を教えてください。

・主に従二位〜正二位の間です。厳密に言うと、はっきりと「従二位」とか「正二位」という風には決まっていません。三人とも大臣ではありますが、一番重きを置かれていたのは左大臣です。内大臣は選ばれない場合もありました。[みぃ]


瑠璃
さんの疑問
親王(内親王)の位のひとつ「一品」の読み方を教えてください。くだらない質問ですいません。

・「いっぽん」です。[みぃ]
・余計だとは、思いますが・・・、この「一品」・「二品」は親王・内親王の位をあらわします。ちなみに、女三の宮は、「二品の宮」でした。[美華姫]



さんの疑問
内親王か内親王でないかはただの身分の違いなのですか?それとも何か関係することがらがあるのでしょうか?

・内親王であるということは、正式に「帝(もしくは上皇)の娘であると認識されたという事です。親王同様、格式がぐんと上がり、禄などももらえます。(ただし品田は親王のおよそ三分の二、品禄はおよそ二分の一となっていたそうです。)[みぃ]
・では内親王になれない姫は帝(院)の姫として認められていないということですか?>みぃさま[蘭]
・う〜ん…具体例が出てこないので明確にはいえないのですが、公式には認められない、という感じだったのではないでしょうか。たとえば、女房に産ませた子 供などは、そうだったのかもしれませんね。 源氏などの姓を賜った姫君もいましたけれど、そういった氏姓皇族はまた別物な気もするのですが…[みぃ]


幟稀
さんの疑問
東宮のときにも正妻の中宮という人はいたのでしょうか?

・帝の后が中宮(皇后)なので、東宮時代には女御までしかいません。また、帝の正妻に当たる「中宮」も先帝の中宮の位が変わる(皇太后な ど)、もしくは出家するまでは、立后することができませんでした。同時期に三人(四人)以上の后が存在する事はできなかったということですね。(三人、と いうのは、以前申し上げた三后のことです)[みぃ]
・以前申し上げた・・・・とは蘭様のお答えでみぃ様がお答えしているところでしょうか?ありがとうございました!![幟稀]
・すいません。訂正です↑蘭様がお答えしているのではなく質問されているでした。蘭様、みぃ様すいませ〜ん[幟稀]
・東宮のときの正妻は、「東宮妃」と呼ばれる御方です。そのために、六条御息所は、夫は東宮のときに亡くなりましたが、世間的には、「先の東宮の北の方」と思われています。[桔梗]


幟稀
さんの疑問
前の東宮は東宮のときに亡くなったのですか?また誰の東宮だったのですか?

・六条御息所の夫であった東宮のことでしょうか?それでしたら、「先の東宮」として亡くなったからそう呼ばれているのでしょう。「誰の東宮」というのは、意味がわかりかねます。東宮というのは皇太子の事ですから…[みぃ]
・みぃ様わけわからないこと聞いて申し訳ありません。誰の東宮というのは誰の帝が在位中東宮になっていたのでしょうか。その帝の名を・・・という意味です。ごめんなさい。[幟稀]
・桐壺帝の代の東宮と言われていると聞きます。しかしながら、源氏の兄で、後の朱雀帝である東宮が東宮である時代と重なるということが生じてくるので、紫式部の計算違いか、果てまた右大臣一族の陰謀かと、論が生じる部分でもあるようですね(苦笑)。[みぃ]
・朱雀帝が東宮になる前に東宮位についていた、という考え方も出来なくはないんですが、それだと六条御息所の年齢と矛盾してしまうんですよね。そのため、 「前の東宮」に関しては結論が出ていません。源氏物語の中には、個人の正確な年齢よりも、物語展開や対人関係(○○と××は☆歳差、など)を重視している ような部分も見受けられるので、仕方ないのですが…(^_^;)[minagi]
・↑すいません。名前間違えました(汗)[美凪]
・みなさん、ありがとうございます!!よく分かりました!![幟稀]


困った
さんの疑問
夕顔と某の院に連れ出すことによって少し現実を離れた感じを読者に印象づけることってできると思いますか?

・読者が判断する事とは思うのですが、私自身はできるのではないかと思います。当時、女性は自分の家からめったに出なかったこと、さらにい うまでもなく、男性に連れ出されるのはほとんど例外的な扱いだったことなどからも、他所の屋敷で(しかも素性がわからぬ男性と一緒に)過ごすということ は、現実離れしていると思われたのではないでしょうか。[みぃ]
・現在の私たちが判断するのは難しいのですが、当時の人々にとっては「某の院」は暗示的な意味があったかもしれません。人気のない邸には物の怪が住み着い ている場合もあると信じられていたようですし。その他様々な信仰や生活習慣(これはみぃ様がおっしゃっていることも含みます)を合わせると、少しどころか 「かなり」現実離れしたイメージを読者に与えていたかもしれません。[美凪]
・某の院は古来より河原院説がありますね。河原院は源氏物語の時代幽霊スポットのような位置付けです。もし某の院=河原院とする説にのっとれば、現実離れ・・・というか不吉なイメージを読者に印象づける意味合いがあったのではないでしょうか。[えるるん]


幟稀
さんの疑問
玉かずら(すいません。字がでなかったので)は尚侍ですが一度しか内裏にあがっていません。これでも、尚侍だったといえるのでしょうか?

・いえますよ。基本的に女官は貞観殿に詰めているものなのですが、尚侍は女御・更衣に次いで帝に侍る機会のあった官職です。尚侍から女御へ、というプロセスもあった気がします。このような職なので、一度も参内しなくても官職はそのままだったようです。[みぃ]
・さっきの回答に付け足しなのですが、尚侍は女官といえど上記ような地位にいたので、後宮に滞在する場合は貞観殿ではなく他の殿舎に住んでいました。また、女御・更衣とは違い、帝の妻としての参内とは限らないので、既婚の女性でもできるという点があります。[みぃ]
・みぃさんありがとうございます[幟稀]


桔梗
さんの疑問
清涼殿にある、「弘徽殿上御局」・「藤壺上御局」って、何なのですか?教えて下さい。

・清涼殿は帝の日常生活に使用される部屋なので、その二部屋は、女御・更衣が、夜、帝のお側に侍るときに使う、待合室のようなものです。弘徽殿と藤壺に住む女性のみが使うわけではありません。[みぃ]
・みぃさん、有難うございました。[桔梗]



さんの疑問
秋好中宮が明石の女御に中宮の位を譲ってからは中宮ではなくなりますが・・・・では、正式な院の后ではなくなったということですか?

・昔の后には三通りありまして、太皇太后、皇太后、皇后(中宮)となります。これを三后というのですが、中宮の位を譲ってからも皇太后、太 皇太后となることができます。もちろん、三人(もしくは四人)のみの特権ですから、全てが埋まっている時にはできません。その場合、誰かが亡くなる、もし くは位を降りて女院になるまで、その世代の中宮は誕生できないことになります。[みぃ]
・(すいません、途中で終えてしまいました^^;)つまり、中宮の位を譲っても、正式な妻でなくなったわけではないということです。本文にも、元の秋好中宮は「后の宮」などとかかれています。[みぃ]
・ありがとうございました[蘭]



さんの疑問
先帝はいつの帝なのですか?桐壺帝の前の帝でしょうか?それとも一の院の前の?それとも不明なのか・・・・

・この場合、先帝とは、今上の直前だから先帝と記述があるのだと思っていましたが…。[葵]
・ということは桐壺帝の前ということでいいのでしょうか?>葵様[蘭]
・先帝とあれば、今上帝のすぐ前の帝になります。ですから、冷泉帝の前は朱雀帝、朱雀帝の前は桐壺帝、桐壺帝の前ならば(名はわかりませんが、)その前に即位されていた帝という事になると思いますよ。[みぃ]
・先帝とは、今上帝の一代前に即位していらっしゃった帝を指します。二代前・三代前になると、先々帝・先々々帝と呼ばれたりもします・・・。また、かつて帝で御位を降りられた帝は、全員、「院」や「上皇」と呼ばれます。[桔梗]
・みなさん、ありがとうございました。[蘭]

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