源氏ファンの助け合い(^^)

源氏物語質問箱14

「げんじろーど」に集う素敵な
源氏物語仲間が回答してくださいました。
ありがとうございますm(__)m


梨壺
さんの疑問
藤裏葉の頃(明石の姫の入内の時)に、明石の姫は自分の実母が明石の上だと知っていたのでしょうか?また、知っていたならば、いつから知っているのでしょうか?教えてください。

・入内時にはまだ知っていませんでした。初の懐妊で六条院に下がって、方違えで冬の町(西北の町)に移動した折に尼君と対面し、そこで初めて知らされました。[みぃ]
・つけたしです。この事は「若菜上」に載っています。(身重の具合が悪いので住まいを移し変えたようで、もしかしたら方違えとはいわないのかもしれません。)明石の君自身は、女御(明石の姫君)が中宮の位についてから教えようと思っていたようです。[みぃ]
・ありがとうございました![梨壺]
・私が思うに、「初音」のときは、なんとなく知っていたのではないですか?だから、明石の君からの歌にああいう返事を書いたのでは?[MARI]
・MARIさんへ> 「若菜上」の文では、「母君をば、もとよりかくすこしおぼえ下れる筋と知りながら、生まれたまひけむほどなどをば、さる世離れたる境にてなども知りたまはざりけり。」とあります。つまり、[みぃ]
・(書きかけで書き込んでしまいました、すいません^^;)つまり、「自分の母親が身分の低い女性だとは知っていたが、生まれた場所などは知らなかった」 ということです。このことから、女御は紫の上と自分は血がつながっていない、自分の母親は幾分身分の低い女性だ、ということは知っていましたが、明石の上 本人であるとは知らなかった事が伺えます。「初音」の帖のことは、私もはっきりとはわからなくて、憶測で言うだけなのですが…あの時点で8歳だった明石の 姫君は、時候の挨拶として送ったのでは?という気もします。(あ、個人的な意見ですから、違う可能性ももちろんあるのですが)和歌の訳では自分になぞらえ てあるのですが、まだ子供でしたから…。もしくは、母親からといわれてはいませんし、失礼にならない程度にの挨拶、だったのでは?とおもうのですが…どち らも個人的な見解なので、ぜんぜん違うのかもしれません。(訳わかんない話ですいませんでした)[みぃ]
・皆さん、詳しくどうもありがとうございました。[梨壺]


紗瑜
さんの疑問
○○帝という名の○○は院のとき住んだところだとすると、在位中は今上帝と呼ばれて、例えば朱雀帝や冷泉帝と呼ぶことはなかったことになりますがそのあたりどうなっているのでしょうか?

・在位中の帝が「○○帝」と呼ばれることはありません。在位中は全員「今上帝」です。朱雀帝や冷泉帝という名は元からあるものではなくて、退位した後につけられる呼称なのです。・・・これで答えになりましたでしょうか?[美凪]
・美凪様お答えありがとうございます♪[紗瑜]


紗瑜
さんの疑問
冷泉帝の子は誰がいるのですか?

・女一の宮、女二の宮、若宮の三人です。[はや]
・はや様お答えありがとうございます。できましたら、母の名も教えてくださらないでしょうか・・・?(どなたでも・・)[紗瑜]
・女一宮は弘徽殿女御腹、女二宮と若宮は玉鬘の娘(大君)腹の宮です。詳しくは「竹川」の帖を御覧ください。[みぃ]


たー坊
さんの疑問
源氏が女三の宮を妻にしたのは女三の宮の母親と藤壺中宮が姉妹だからとなっていますが異母姉妹ですよね。似ている保障は無いと思うのですが?・・・(それをいうと「藤壺」と「紫の上(若紫)」、「大君」と「浮舟」も同じですけど・・・)。

・精神論になってしまいますが、藤壺中宮の面影を追い求め続けていた源氏にとって、ほんのわずかなつながりも、希望に思えたのではないで しょうか。ご存知のように、平安時代、貴族の女性の顔を見ることはできませんでしたし、まして内親王でしたので…。あと、確かな文献は読んでいないので断 定できないのですが、兄弟姉妹や近しい親類は似ている、というのが平安時代の前提だったのかもしれませんね。[みぃ]
・現在とは違い複雑な事情があったんですねぇ。ご回答ありがとうございました。[たー坊]


紗瑜
さんの疑問
一品の宮と二品の宮についておしえてください

・「品」は、親王及び内親王に叙せられる位階のことです。位の高い順に、「一品」「二品」「三品」「四品」まであります。また、品階の叙せ られていない親王(内親王)は、「無品」となります。つまり、「一品の宮」は一品を叙せられた宮、「二品の宮」は二品を叙せられた宮という意味です。[Miyabi]
・Miyabiさんにつけ足しをさせていただきます。「品」というものは、官職の位に相当するそうで、一品は一位相当、二品は二位相当の身分ということになるそうです。官職の位同様、各品に禄が変わり、身分の重々しさも加わってくるのですね。[みぃ]
・Miyabi様、みぃ様、お答えありがとうございますvv[紗瑜]


紗瑜
さんの疑問
葵の上は葵祭、夕顔は文に添えた夕顔・・・などから名前がついていますよね?(本名じゃないけど・・)では夕霧の名前の由来は何ですか?おしえてください。

・「夕霧」の帖で夕霧が女二の宮邸で「夕暮れの霧が出て帰れなくなった」という本当は女二の宮の許に居たい言い訳から(正確には歌になっています。)が由来です。[たー坊]
・たー坊さまのおっしゃっている歌というのは、「山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して」のことですね。[Miyabi]
・↑の通りでございます。お調べ、ありがとうございます。[たー坊]
・たー坊様、Miyabi様ありがとうございます![紗瑜]



さんの疑問
花散里は、紫の上や明石の上のことをどう思っていたのでしょうか?

・紫の上は最後の法会で自分の死期を暗示するような挨拶の和歌を花散里に送っているので仲がよかったという設定のようですね。花散里に関し ては彼女の心境を自分で考えて「雲隠」の帖をかいた外人さん→マルグリット・ユスナール作の「源氏の君の最後の恋人」を読むと参考になるかもしれません。[梨壺]
・ありがとうございます。梨壺、お久しぶり![松]


えるるん
さんの疑問
すごく今更な質問なのですが、夕霧は夏の町のどの対に住んでいたのでしょうか?また紫上は女三宮が来る前も東の対に居たのですか?

・紫上については答えが判明したので結構です。すいませんでした。[えるるん]
・夕霧は、夏の町の東の対に住んでいたようです。ちなみに、東の対には養母・花散里も住んでいました。[Miyabi]
・↑追加 また、のちに六条院夏の町に引き取られてきた玉鬘は、夏の町の西の対(もともと文殿だったのを、文殿をほかへ移して、玉鬘の部屋にした)を与えられました。[Miyabi]
・どうもありがとうございました![えるるん]


パオ
さんの疑問
葵巻の御禊の日(車争いがあった日)の場面のところで気になるところが あったのですが・・・。行列の中にいる光源氏の姿を、女房から庶民までが褒め称えている中に、式部卿宮(朝顔の姫君の父)だけが「ゆゆし」と感じている場 面があったのですが、それはなぜなのでしょう?紅葉賀巻でも、青海波を舞っている光源氏を弘徽殿女御が「うたてゆゆし」と言っていましたが、源氏と対立し ていることを考えればなんとなく理解できます。でも式部卿宮って光源氏となにかありましたっけ?なぜ突然式部卿宮を登場させて「ゆゆし」なんて感じさせる のでしょう?

・「ゆゆし」は現代で使われるのとはちょっと違う意味で、「不吉なほどに素晴らしい・美しい」という風な意味もあります。式部卿宮の「ゆゆ しく」も賛美の言葉ととるべきでしょう。ちなみに弘徽殿大后の方のは、「不吉なくらい美しさね、ああ嫌だ」みたいな感じで嫌味のニュアンスです。[えるるん]
・えるるんさんにつけたしなのですが、昔の認識では、美しすぎる人間は、神様に連れて行かれるというものがあったそうです。手元に資料がないので詳しくは かけないのですが、昔、舞を舞った子供があまりにも愛らしかったので、空から見ていた神様が連れて行ってしまった(早世してしまった)という話がありま す。狭衣物語の中には月からの使者が登場していますし(月もまた、あまり浴びてはいけないものという認識があって)、源氏物語の中でも、「須磨」の帖に だったと思いますが、源氏が海(竜神)に呼ばれる箇所がありましたね。「美人薄命」という言葉に近いものなのではないかと思っているのですが…こんな感じ で納得いくでしょうか?[みぃ]
・えるるんさん、みぃさん、ご回答ありがとうございました。質問しっぱなしになっててすみませんでした。「ゆゆし」はあんまりにも美しすぎる光源氏に対し ての褒め言葉だ、ってことですね。現代語訳をみると、小学館の古典文学全集だと「不吉に」となってて、別の本(なんだったか忘れました)だと「不気味に」 となっていたんで弘徽殿女御の例と勝手に結びつけて、式部卿宮ともいざこざがあったのか?と早とちりしていました。[パオ]



さんの疑問
内親王と皇女は違うのですか。

・内親王は帝の姫で、皇女は帝の姫に限らず皇族の姫だと思いますが・・・[蘭]
・両方とも天皇の娘ですが、身分(というか、格というか…)に差があります。内親王は、皇女のうち「内親王宣下」を受けた人のことを言います。天皇の娘と して生まれても、宣旨を受けないと内親王にはなれません。これは親王・皇子の場合も同じですね(こちらは「親王宣旨」)。親王・内親王の宣旨を受けること が出来なかった皇子や皇女は、帝がから姓を賜り臣籍に下る場合もありました。光源氏もこのパターンです。内親王宣下のない皇族女子(天皇の孫なども含む) の呼称としては、「女王(にょおう)」というものがあります。[美凪]
・↑で「宣下」と「宣旨」の言葉がありますが、正しくは全て「宣下」です。ごめんなさい、間違えました…(汗)[美凪]
・どういう皇女が内親王宣下を受けるのですか?[霞]
・一概には言えないのですが、母方の血筋が多き場合は内親王宣下を受ける事ができました。母親が女御である場合は、よほどのことがない限り、宣下を受けら れたのではないかと思います。逆に母方の身分が低い場合(更衣やそのほかの女官など)、受けられなかったことが多いのではないかと思われます。また、後宮 にたくさんの女性がいて、子供が多くなってしまって、多くの子供に源氏の姓を下したという例もあった気がします。(「思う」とか「気がする」とかばかりで すいません^^;)[みぃ]
・ところで、美凪さんが「宣旨」ではなく「宣下」とおっしゃっていますが、「宣下」は(天皇・上皇が)「宣旨」を下す事だそうですから、補足させていただきます。(美凪さん、ご迷惑だったらごめんなさい)[みぃ]
・お答え下さりありがとうございます。[霞]
・みぃさん>いえいえ、補足してくださってありがとうございました。少し言葉が足りなかったようで、申し訳ありません。[美凪]


ナナ
さんの疑問
紫式部はなぜ、葵の上と弘徽殿太后に歌を詠ませなかったのでしょうか?何か作者的意図があったのでしょうか?

・特に意図したわけではなく、そうすべき場面がなかったからではないでしょうか。和歌は、主に、感情の表現手段の一つとして用いられていたと聞きますので…。その代わり、古歌や漢詩の一部を口ずさむ、という場面はあった気がします。[みぃ]
・そう考えると、たしかにそうですね。ありがとうございました。[ナナ]
・葵上については、確かどこかで誰かが論文出してたような気がするんですけど…。うちのゼミの教授が言ってたんだったかなー。すいません、詳細全っ然覚え てないんですけど(汗)、キャラの性格を表すものとか、物語中で置かれている位置等、みたいな感じで着目して研究する人はいるみたいです。作者が意識して そうしたわけじゃないけど、実は特色がある、みたいな。わたしのぼんやりとした記憶では葵上だけですけど、弘徽殿大后でもありえます。すっごく不明確な答 えでごめんなさいっ(>_<)[美凪]
・葵上に関しては、歌を詠む機会が物語中ないようにも思えますね。源氏などから歌を詠まれたこともないですし。でも彼女の唯一のセリフ「問はぬはつらきもの」は歌の引用らしいですが。[えるるん]


ナナ
さんの疑問
弘徽殿太后って、源氏が帰京してからは出てこないけれど、その後どうなったのですか?いつ頃なくなったのですか?

・源氏帰京後もちょくちょく出てますよ。源氏&朱雀院にお見舞いされたり、弘徽殿女御に絵をあげたり。源氏から仕打ちを受けたりはしていま せんが、源氏帰京からは政治的発言権はほとんどない状態になっています。年をとるにつれイジワル度が増して、朱雀院を辟易させているとの記述も有り。彼女 の死期は明記されていませんが、若菜上で既に亡くなっています。[えるるん]
・得るるんさん、ありがとうございます。[ナナ]


紗瑜
さんの疑問
冷泉帝の梅壺の女御は中宮になると秋好中宮と名が変わりますがどうしてなのでしょうか?梅壺の中宮と書いても間違いではありませんか?

・名前が変わったわけではありませんよ。在所が梅壺なので「梅壺の女御」と呼ばれていたわけですね。また、彼女の場合は斎宮を経ての入内で したから、「斎宮の女御」と呼ばれてもよい立場になっています。(実際本文の中にもそういった箇所がありますね)もし彼女の在所が梅壺のままだったら、梅 壺の中宮でも良いのだと思います。中宮になって六条院を里邸にした時、「秋を好む」といった事、紫の上との和歌の贈答などから、秋を好む方として有名に なったので、「秋好中宮」と呼ばれるようになったわけですけれど…こんな感じで答えになったでしょうか?[みぃ]
・みぃ様またまたありがとうございます♪すごく分かりやすくて謎が解けました♪ [紗瑜]



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